医学博士、幼児教育者、フェミニスト
マリア・モンテッソーリ
Maria Montessori
私が思いもかけず発見したのは、
子どもの心の奥底に隠されていた宝物でした
1896年、イタリアで初めて女性医師が誕生しました。その人はマリア・モンテッソーリ、後に世界中に知られる教育者となるのです。
マリア・モンテッソーリは、1870年にイタリア中部で生まれました。会計官吏の父親と、当時としては珍しい高い教育を受けた母親との一人娘で、5歳の時に父の転勤でローマに移り住みます。
やがて、算数が得意なマリアはエンジニアになりたいと、13歳で工科中学校、さらに工科高等学校に進学。父親は「女の子なら別の学問を」と反対しますが、自らは因習的な世界に縛られた母親は娘を応援。卒業の頃には夢は医者へと変わっていきます。
「必ず医者になってみせます」―女子は医学部入学を認められていない当時、マリアは粘り強く交渉。ようやく入学を果たします。そして、男子学生の執拗な嫌がらせや授業での差別に耐え、優秀な成績で卒業。
医学博士になって1ヵ月後、ベルリンでの国際婦人会議に招かれ演説。「不当に虐げられているすべての女性の権利を求める」と熱弁をふるい大喝采が。フェミニズム運動の先駆者としても一躍有名になるのです。
そして、開業医の傍ら大学で精神科の研究を続けていたある日、知的障害児の保護施設を訪れます。何もない殺風景な部屋で子どもたちが床のパン屑を触る様子を目撃。「子どもたちは目の前にあるただ一つのおもちゃをつかもうとしているのだ」―刺激を求める子どもの姿に気づいたマリアは、健やかな環境を作り、見て、触り、聴く、身体を動かすなどで五感を刺激する教育を開始。すると、疎んじられていた子どもたちがみるみる成長、文字や数字を理解できるまでになったのです。
その頃、マリアは研究仲間の同僚と恋愛関係となり、28歳で長男マリオを出産。でも、親族の説得で泣く泣く田舎の乳母に預けます。しかし、恋人はまもなく他の女性と結婚。なんというひどい裏切りでしょう…。
やがて、貧困層向けのアパートを開発した建築協会から、共働きで日中留守番をする就学前の子どもたちの保育の依頼が。「この仕事は、とても重要であると証明され、いつの日か人々が世界中から見学に来るだろう」とすぐに承諾し1907年、「こどもの家」を開設。子どもの身体に合わせた机や椅子、棚などの家具を配置し、色の付いた様々な教具から植物や小動物も取り入れます。
「子どもが自分で出来ると思って取り組んでいる時、決して手助けしてはいけません」―子どもを支配せず自発性を大事にした結果、子どもたちは自ら遊び片付け、身づくろいをして、小さな子の面倒まで見るように。しかも就学前に文字に興味を示し読み書きまで覚えたのです。
この教育法は評判となり、世界中から見学者が訪れます。マリアも講演やこどもの家、教師養成所の設立に世界中を旅して回ります―「私の国は、太陽のまわりを回っている星、地球です」。旅には常に息子マリオが寄り添いました。14歳でようやく手元に引き取ったのでした。
二度の大戦を経験した後には平和教育に熱中―「子どもが新しい世界平和の創造者となるのです」
「私が思いもかけず発見したのは、子どもの心の奥底に隠されていた宝物でした」―その宝物を大切に、すべての子どもたちの幸福のためにパワフルに行動した生涯でした。
1870~1952年。医学博士、幼児教育者、フェミニスト。イタリア中部生まれ。男子だけの工科中学、高校を卒業し、ローマ大学医学部に学ぶ。1896年、イタリア初の女性医学博士となる。知的障害児の教育に携わった後に1907年、ローマのスラム街に保育園「こどもの家」を開設。ここでの幼児教育が評判となり、1909年『モンテッソーリ・メソッド』を刊行。以後、世界中を飛び回りそのメソッドを普及させた。81歳でオランダにて他界。
参考文献/『マリア・モンテッソーリ 子どもへの愛と生涯』リタ・クレーマー著(新曜社)、『マリア・モンテッソーリ』国際モンテッソーリ教育101年祭実行委員会・編(てらいんく)
