小説家
ジェイン・オースティン
Jane Austen
私は自分の流儀を守って、
自分の道を進まなければなりません
1995年頃から、作家ジェイン・オースティン原作の映画『いつか晴れた日に』『プライドと偏見』などが次々に公開され、ブームとなりました。シリーズ化された『ブリジット・ジョーンズの日記』も彼女の小説が下敷きとなっています。
ジェイン・オースティンは、1775年にイギリス南部ハンプシャー州の田園地帯スティーヴントンの牧師館で男の子6人、女の子2人きょうだいの下から2番目に生まれました。牧師で教育家の父親は大の読書家で、ジェインを含め家族全員も読書好きに。兄たちは文学青年となり、雑誌を発行するまでになります―「我が家はみな大の小説好きで、そのことを恥としない一家なのです」
家族は仲が良く、とりわけジェインとすぐ上の姉カサンドラは親密で、7歳から4年間ほど姉にくっついて寄宿学校で学びます。12歳から15歳頃には、家族で素人芝居に熱中。有名な戯曲をクリスマスに、村人や友人を家に招いて上演します。
そんな文芸一家に育ったジェインは、12歳から小説を書き始めます。流行っていた小説をパロディ化、コミカルな話を作り、友人や家族、親戚に捧げ笑わせようとします。
やがて、18歳になると本格的に執筆に着手。「田舎に三つか四つの家族があれば小説の材料に最適です」―遠くへ旅行したこともなく、狭い範囲での人付き合いしかなくてもジェインには、深い洞察力がありました。そして、常にユーモラスな彼女は、地方の中産階級を舞台に、見聞きした平凡な日常生活や人間関係、恋愛模様を物語化し、喜劇的な視点で描きます。でも、自分の机も個室もなく、居間で書くしかありません。執筆中に来客があれば気づくようドアの軋みは修理せず、原稿はすぐ隠せるよう小さな紙に書くのでした。
25歳の時には父親が引退、娘2人を連れて華やかな保養地バースに移り住みます。田舎の風景を愛していたジェインは、転居にショックを受けますが、次第に作家魂を発揮していくのです―「ここから離れると何か面白いことがあるでしょう」
そしてジェインは恋愛を経験しますが、婚約間近に相手の訃報が届きます。次に、裕福な家の息子に求婚され、承諾したものの翌朝に彼女から婚約を破棄。「女が独身でいると恐ろしいことに貧乏になりがちです」―当時、女性は遺産相続ができず結婚は死活問題。それなのに、結婚は愛が大切と思い直したのです―「愛情のない結婚に比べれば、どんなことでも耐えられます」
その後、父親が亡くなり住まいに困った母娘3人が、3番目の兄の計らいでハンプシャーのチョートンに落ち着いたのはジェイン33歳の時。ここから、執筆活動に本腰を入れます。その2年後、若い頃から推敲を重ねた『分別と多感』が“ある婦人作”としてやっと世に出ました。女性が小説で報酬を得るなんてはしたないと思われていた時代でした。
そうして、匿名のまま人気となっていくのです。ジェインの正体を知り、見知らぬ世界を書くよう提言する人が現れますが、「私は自分の流儀を守って、自分の道を進まなければなりません」ときっぱり拒否。
現代にまで愛される傑作を遺し、病で最愛の姉の腕の中で息を引き取ったのは41歳の時。その後、4番目の兄によって未刊行の作品が出版され、名前も明かされたのでした。
1775~1817年。小説家。イングランド南部ハンプシャー州生まれ。読書が大好きな牧師一家に育ち、少女時代から物を書き始める。『分別と多感』『高慢と偏見』『マンスフィールド・パーク』『エマ』の4作を匿名で出版、人気となるが41歳で死去。没後に未刊行の2作が出版された。作家サマセット・モームが『世界の十大小説』に『高慢と偏見』を選定。終の棲家となったチョートンの家は記念館として一般公開されている。
参考文献/『ジェイン・オースティン』大島一彦著(中公新書)、『シリーズ作家の生涯 図説 ジェイン・オースティン』大英図書館(ミュージアム図書)