作詞家、訳詞家、詩人
岩谷 時子
Iwatani Tokiko
華やかな女優として
いつまでも花咲いてもらうために、
対等に共存共栄でいこうと思った
圧倒的な歌唱力と独特の個性で人気を集めた元タカラジェンヌのスター越路吹雪、彼女を終生支えたのがマネージャーの岩谷時子です。さらに戦後初の女性作詞家として大きな功績を遺した人でもありました。
岩谷時子は、1916(大正5)年に現在の韓国ソウルで誕生しました。まもなく帰国し、5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。仲睦まじい両親に一人娘として大切に育てられ、宝塚少女歌劇の大ファンである母親のお供で宝塚劇場に度々通います。
「学齢期から情操教育のすべてを宝塚に学んだ」時子は、文学少女となり、宝塚歌劇団の機関誌『宝塚グラフ』や『歌劇』に、詩や小説を投稿するように。やがて、神戸女学院大学英文科を卒業後、将来を模索しつつ宝塚文芸図書館に通う日々。実はこの頃、父親が結核で寝込み、収入もなく跡取りとして「自分の不甲斐なさに」泣き明かす夜もありました。
それでも、「良いものが書けるまで、粘り強く書き続けてみせる」と文筆家を目指すのです。そんな時、宝塚歌劇団文芸出版部から編集部員への誘いが。願ってもない申し出に一家を担えると時子は小躍りします。
23歳で編集部員となったある日、ひょろりとした宝塚の生徒がやってきて、「ねえお姉さん、サインを考えてほしいの」。それが8歳年下の越路吹雪との出会いでした―「ぶっきらぼうで面白い子」。2人は次第に姉と妹のように仲良くなるのです。
やがて戦後、宝塚のトップスターとなった越路が、帝劇オペラ『モルガンお雪』の主役に抜擢。時子は社命で共に上京し、舞台は大成功を収めます―「誇らしい。彼女のためなら全てを捧げても惜しくは無い」。越路はその手柄で東宝移籍となり、時子も東宝文芸部に異動。越路のマネージャーに任じられます。
そして、ラジオで越路が歌う英語の歌の訳詞を英文科出身という理由で頼まれます。詩も書いていた時子にはやり甲斐がありました。さらに、越路がエディット・ピアフの『愛の讃歌』を歌いたいと切望。「直訳ではとても悲惨な物語。でも越路さんが『メロディを聴いて、出てきた言葉で自由に書いて』って言うの」―時子独自の詞をのせた『愛の讃歌』は、越路の代表作となりました。
こうして時子は訳詞家・作詞家としても歩み始め、ザ・ピーナッツの『ふりむかないで』が大ヒットします。「もっと創作に集中して、ヒット曲を書きたい」と東宝を退社。マネージャー役は無償で続けていくことを決意―「華やかな女優としていつまでも花咲いてもらうために、対等に共存共栄でいこうと思った」
そして、岸洋子『夜明けのうた』、加山雄三『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』など多数のヒット曲を手掛けます。しかし、最愛の母を看取り、さらに越路が56歳でがんで亡くなります。「立ちあがれないほどの哀しみ」に追い打ちをかけるように越路の親族から時子に横領の嫌疑が。スターなのに蓄財がなかったからです。実は越路の派手な浪費癖は有名で、その穴埋めや時には越路夫妻の生活費、入院費までを時子が用立てていたのでした。
気力をなくした時子を年下の親友、坂東玉三郎が励まします。そうして『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』などのミュージカルの訳詞で再び活躍。詩情溢れる3000曲もの作品を世に送り出した生涯でした。
1916~2013年。作詞家、訳詞家、詩人。現在のソウル生まれ。神戸女学院大学卒業後、宝塚歌劇団出版部に入社。1951年に越路吹雪が東宝専属となるに伴い東宝文芸部に異動、越路のマネージャーに。『愛の讃歌』の訳詞をきっかけに作詞も始め、加山雄三の主なヒット曲や佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、郷ひろみ『男の子女の子』など多数のヒット曲を出し、『王様と私』『ウエストサイド物語』などミュージカルの訳詞にも活躍した。
参考文献/『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』村岡恵理著(光文社)、『愛と哀しみのルフラン』岩谷時子著(河出書房新社)、『最後の日本人』斎藤明美著(新潮文庫)
