画家
ジョージア・オキーフ
Georgia O'Keeffe
人間にとって栄養になるものは何ひとつ供給しない、
あるのはただ魂の糧となる凄絶なる美のみ
1970年、ニューヨークのホイットニー美術館で、孤高の画家ジョージア・オキーフの回顧展が開催されました。「島流しにされても平気です」と、長く世間から遠ざかり「謎の隠者」と噂されていたオキーフですが、82歳にして多くの新作も発表。大盛況となったのでした。
1887年、ジョージア・オキーフは、アメリカ・ウィスコンシン州の農場で、7人きょうだいの2番目に生まれました。勉学を諦めて結婚した母親は、子供の教育に熱心で、娘たちに上流階級のたしなみである絵画を習わせます。すると、絵の才能に目覚めたジョージアは12歳で「私は画家になる」と宣言。
やがて高校卒業後、シカゴとニューヨークで美術を学びます。ニューヨークで画学生だった時、有名な写真家で現代アート推進者のアルフレッド・スティーグリッツの画廊を仲間たちと訪れます。その出会いが後に大きな転機をもたらすのです。
しかし、農家をやめた父親が事業に失敗し、ジョージアは学校を中退。美術教師として働きます。でも、画家への思いは断ち切れず「私の頭にある、これまで人から教わったどんなものとも違う、いろいろなこと」を描くことを決意。友人に「もしかしたら私は支離滅裂かもしれない」と、抽象的な木炭画を送ります。その独自性に驚いた友人はスティーグリッツのもとへ。彼は「とうとう女の画家が出現した!」と叫びます。
当時、ジョージアはテキサス州で教師をしていました。テキサスの大平原に魅了されながらも「ただ絵を描きたい」という望みが募ります。そんな彼女に、スティーグリッツは手紙で才能を称賛。彼の励ましと援助でニューヨークへ向かうのです。
こうして、ようやく画業に専念していきます。やがてジョージアとスティーグリッツは、彼の別居中の妻との離婚成立後に結婚。ジョージア37歳で24歳差の強烈な個性が刺激し合う芸術家同士のカップルでした。
そして、抽象的な風景画やニューヨークの摩天楼を描き、モダンアートの先駆者となります。特に話題となったのが、画面いっぱいに拡大して描いた花のシリーズ―「花を見つめる時、その瞬間、それはあなたの世界なのです」。官能的すぎるという批判も出ますが「賛辞も非難も同じ排水管に落ちて行き、私はまったく自由でした」と意に介しません。
そうした中、夏になるとスティーグリッツ家の別荘で過ごすのが習わしに。美しい自然に心が和む一方で、別荘に集うスティーグリッツ一族の賑やかさや社交好きな夫への訪問客がストレスになっていくのです。
「独りになりたい。自由になりたい」―41歳になったジョージアは、インスピレーションを求めてニューメキシコへ。強烈な太陽の光、広漠とした世界に一瞬にして心奪われます。―「人間にとって栄養になるものは何ひとつ供給しない、あるのはただ魂の糧となる凄絶なる美のみ」。その地で、拾った動物の頭蓋骨や遠くの山脈などを描き続けます。
しばらくはニューヨークと行き来しますが、スティーグリッツが82歳で亡くなると、1949年からニューメキシコに完全移住。圧倒的な孤独の中で創作に没頭します。
「本当に自分がしたいことをしてきただけ」―晩年、視力をほとんど失っても創作意欲を失わず、ただ描くことに情熱を捧げた生涯でした。
1887~1986年。画家。アメリカ、ウィスコンシン州生まれ。シカゴやニューヨークで絵画を学ぶ途中で、生計のため美術教師に。写真家のアルフレッド・スティーグリッツの誘いで1918年、ニューヨークへ。以後、画業に専念、1924年スティーグリッツと結婚。摩天楼や大きな花の絵で名声を得る。1929年にニューメキシコを訪れ、1949年に完全移住。風景、建物、動物の頭蓋骨などを描き続ける。1953年以降、世界中を旅行して回り日本が大好きに。
参考文献/『ジョージア・オキーフ 崇高なるアメリカ精神の肖像』ローリー・ライル著(パルコ出版局)、『ジョージア・オキーフ 人生と作品』チャールズ・C・エルドリッジ著(河出書房新社)
