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時を創った美しきヒロイン

社会奉仕家

大山 捨松

Oyama Sutematsu

自分も幸せになれその上お国のためにも
役に立つ道もあるはずだと思います

 明治4(1871)年12月、横浜港から岩倉使節団を乗せた船がアメリカに向けて出港しました。岩倉具視や伊藤博文らに混じって約60名の留学生もおり、うち5人は日本初の女子留学生でした。その中に、山川捨松11歳の姿がありました。

 山川捨松、幼名咲子は、幕末の1860年に会津藩家老山川家の末娘に生まれました。やがて、8歳の時に戊辰戦争が勃発。会津が旧幕府側だったために薩長の新政府軍が会津に攻め入ったのです。咲子も傷を負い戦争の修羅場を体験します。

 そして、会津藩は降伏。間もなく新政府では「優秀な人材は教養ある母親から生まれる」と、アメリカへの女子留学生を募集。山川家では家名再興にと、咲子を応募したのです。母親は「お前を捨てたつもりで待つ」との思いを込めて咲子を捨松と名を改め、遠い外国に送り出しました。

 渡米後、5人のうち2人はすぐに帰国。残った捨松、津田梅子、永井繁子、ホームステイ先の娘アリスは終生の友情を育むのです。そして、教育者を目指すアリスを見て、捨松も女子教育への夢を抱きます。

「私の生涯で一番幸福で希望に充ちた4年間」――やがて、名門女子大ヴァッサーカレッジをトップクラスの成績で卒業。さらに看護学校で学び、アリスに「日本のために私と共に働いてくださるという願いが実現しますように」と伝え希望に胸をふくらませ帰国の途に就きました。

 しかし、捨松を待っていたのは失望でした。女子は男性に従順にと旧態依然に戻っていたのです。しかも、捨松は日本語の読み書きを忘れ、教職には就けず、さらに、22歳で未婚ということで婚期を逃した女と陰口が――「とにかく女性は結婚しなければどうにもならないのです」

 そんな捨松にプロポーズしたのが18歳年上の大山巌陸軍卿でした。巌は元薩摩藩士で会津攻撃の隊長。山川家では仇敵との結婚に猛反対。しかし、巌はヨーロッパ留学をした進歩的な考えの持ち主で、何度かデートをするうちに捨松は人柄に魅かれ結婚を承諾したのです――「自分も幸せになれその上お国のためにも役に立つ道もあるはずだと思います」

 結婚後、外国の賓客をもてなす鹿鳴館がオープン。捨松が登場すると、すらりとした長身と美貌、英語、フランス語、ドイツ語に堪能で洗練されたダンスと社交術でたちまち「鹿鳴館の華」と注目を浴びたのです。

 ある日、病院視察に出かけた捨松は、雑用係の男性が病人の世話をしている光景にショックを受けます。専門教育を受けた看護婦が必要と、捨松はアメリカで経験した慈善バザーを計画。新聞にも大きく取り上げられて、バザーは大盛況。現在のお金で1億円もの収益金が集まり、日本初の看護学校が創設されました。

 そして、華族女学校の設立準備委員などで活躍後、明治33年、梅子が女子英学塾(現・津田塾大学)を創設。捨松、繁子、アメリカから呼び寄せたアリスが全面支援し、女子教育の夢を実現させたのです。

 日露戦争が開戦すると、募金や包帯作り、傷病兵の看護や遺族の救済活動にあたります――「私達女性は、悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」

 様々な社会奉仕に邁進した捨松が急逝したのは58歳の時。病に倒れた梅子の後任選びに奔走、多忙な中でスペイン風邪に罹ってのことでした。

P e

1860~1919年。社会奉仕家。会津藩家老山川家に生まれ、幼名は咲子。11歳で日本初の女子留学生として渡米。ヴァッサー大学に学び、アジア人女性初の学士号取得者となる。24歳で陸軍卿大山巌と結婚。日本初のバザー開催やボランティア活動など様々な社会奉仕活動を行う。津田梅子が創設した女子英学塾の理事となり、学校発展に尽くす。3人の子と、先妻の娘3人と幸せな家庭を築くが、徳冨蘆花の小説『不如帰』の意地悪な継母のモデルとされ誹謗中傷を受ける事件に耐えた。