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時を創った美しきヒロイン

中国唐代、玄宗皇帝の寵姫

楊貴妃

Yang Guifei Yokihi

天上にあっては比翼の鳥となりたい、
地上にあっては連理の枝となりたい

 絶世の美女として名高い楊貴妃伝説は、古くから日本にも伝わっており、『枕草子』や『源氏物語』にも取り上げられています。牡丹の花神とも讃えられた楊貴妃の生涯とはどんなものだったのでしょうか。

 唐王朝が名君・玄宗皇帝の善政で繁栄していた時代。シルクロードの交易で栄え、都の長安は多民族が共存し、日本からの遣唐使もいた国際都市でした。そんな719年に、楊貴妃は現在の四川省で楊玉環として下級官吏の父親のもとに生まれましたが、幼くして両親が病没。そのため玉環は、叔父に引き取られ、歌や踊りが得意な美少女に育ちました。

 やがて、その美貌が評判となり17歳で、玄宗の30人いる皇子の1人、寿王の妃に選ばれます。寿王の生母は武恵妃で、玄宗の寵愛を独占していました。その武恵妃が寿王の婚礼後に亡くなったのです。傷心の玄宗を慰めようと臣下が白羽の矢を立てたのが、なんと玉環でした。

 こうして玉環は、西安郊外の離宮、温泉宮に召し出されます。温泉宮とは温泉のある宮殿のことで、玄宗が避寒で度々滞在していました。玉環のすべすべとした白い肌に温泉の湯がはじけます。髪は黒く輝き、物腰は上品、一目で虜となった玄宗。でも、息子の妃を奪ったとは体裁が悪く、いったん道教寺院へ出家させ5年後に後宮に迎え入れました。

 そして、玉環は寵姫の最高位である貴妃の称号を賜ります。楊貴妃27歳、玄宗61歳でした。後宮には玄宗の愛を得ようと3000人の美女が待機していました。しかし、「振り返ってひとたび微笑めばなまめかしさが溢れ、後宮の美女がいくら着飾っても色褪せてしまう」と謳われた楊貴妃は、歌や踊り、楽器に秀で、頭もよく気配り上手。誰も敵う者はいませんでした。

 玄宗が楽器をつま弾き、楊貴妃が歌って舞い、2人で濃密な愛を奏でていきます。七夕の夜には「天上にあっては比翼の鳥(雌雄一体となって飛ぶ鳥)となりたい、地上にあっては連理の枝(2つの木が絡み合い1つになった木)となりたい」と愛の言葉を囁き交わすのです。

 玄宗は、楊貴妃が大好きなライチを食べさせようと、遥か1600キロも離れた産地から早馬で届けさせます。また、楊一族も楊貴妃にあやかり我が世の春を謳歌。わいろで私腹を肥やし栄華を極めます。しかし、身内の引き立ては楊貴妃自ら要望したことではありませんでした。

 名君だった玄宗はすっかり愛に溺れ政務はおろそかに。こうして唐の政治が堕落していた755年、クーデター(安史の乱)が起きたのです。玄宗は楊貴妃と楊一族を連れ、長安を脱出。その途中、兵士たちの不満が高まり、クーデターの元凶は楊一族にありと次々と処刑に。ついに側近は玄宗に楊貴妃の命を差し出せと迫ります。玄宗の抵抗も空しく…。

 楊貴妃は抗わずに静かに運命を受け入れます。「陛下御身をお大切に。私は死んでも恨みません」と、玄宗に永遠の別れを告げたと伝わります。楊貴妃、37歳のことでした。

 政治に口を出すことなく、特別な贅沢を望んだこともなく、歴代の后妃がライバルを蹴落とした所業もなく、ただ愛に生きた生涯でした。騒乱はまもなく治まり玄宗は長安に戻りますが、唐は衰退していきます。そのため国を滅ぼした「傾国の美女」として語り継がれているのです。

Profile

719~756年。中国唐代、玄宗皇帝の寵姫。現在の四川省で誕生。17歳で玄宗の第18皇子・寿王の妃となる。22歳で玄宗に見初められ、27歳で後宮入りし貴妃の称号に。楊一族も権勢をふるい、周囲の反感を買う。755年、玄宗と楊貴妃のお気に入りだった武将・安禄山が反乱を起こし、玄宗一行が逃亡の途中で楊貴妃は処刑された。楊貴妃没後50年に白居易が長編叙事詩『長恨歌』を著し、楊貴妃の悲恋物語が広く知られることに。