送料無料
合計金額 0
レジへ進む

時を創った美しきヒロイン

医学博士、栄養学者

香川 綾

Kagawa Aya

栄養学に人生を賭け、
病気を予防する医者になろうと決意した

 今や料理レシピに計量カップや大さじ、小さじでの分量は欠かせません。実はこれらを考案したのは、医学博士で栄養学者の香川綾でした。

 香川綾は、1899(明治32)年に現在の和歌山県田辺市で横巻綾として生まれました。父親は警察官で後に加太の町長になった人物。女の子も勉強が大切と、幼少の頃から娘に漢学を学ばせます。母親はとても料理上手で、母が焼いたクッキーをほおばりながら「幸せって、こんな味がするのかしら」とつぶやくおませな10歳の綾の姿がありました。

 そんな幸せがあっけなく崩れたのは綾が14歳の時。母が急性肺炎で亡くなったのです。「あんなに元気だったのに死ぬなんて誤診だ。私が医者だったら助かったかもしれない」――深い悲しみの中で綾は亡き母に医者になると心で誓ったのです。

 しかし、女性が医師になるのが困難な時代、仕方なく和歌山県師範学校に進学し、小学校教師に。理想の教師像に悩みながら母の命日が近づいた頃、綾の中にくすぶっていた思いが燃え上がります――「医者になる以外、私の生きる道はない」

 意を決して22歳で東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学。卒業後は東京帝国大学医学部の島薗順次郎内科で働き始めます。当時、ビタミンB1不足による脚気(むくみや倦怠感、やがては心臓が弱る病)が蔓延しており、その治療法を島薗内科で研究していました。そして、白米を止め胚芽米にすることで回復することを綾たちは研究で証明し、胚芽米の普及に務めます。「食事だけで、こんなにも健康になるという驚き」に綾は感動し、「栄養学に人生を賭け、病気を予防する医者になろうと決意した」のです。 

 1930(昭和5)年、綾は31歳で同じ研究室の先輩・香川昇三と結婚。お互い栄養学に取り憑かれていた同志で栄養の話題で熱くなるのでした。翌年に長女が生まれると、綾は自宅で「家庭食養研究会」を設立。栄養の知識と料理を教えます。白米をお腹いっぱい食べれば満足だった当時、栄養への理解はなく、「帝大の医者が料理学校を作らなくても」と非難が。それでも「栄養改善に取り組むのは、病気を予防する医者の使命」という信念は揺らぎませんでした。

 そして、「料理を数値化すれば誰でも作れる」という持論に達していた綾は、超一流の料理人を講師に招きます。あらかじめ用意した食材や調味料が調理後に減った分を確認。火加減は、弱火、中火、強火とし、加熱時間はストップウォッチで計測。分量、時間、火加減、調味料の割合を数値でまとめ、料理カードにしたのです。さらに、各栄養素をバランスよく摂る食事法を広めていきます。そして1937年に、研究会を「女子栄養学園」と改めました。

 戦時中には空襲で校舎が消失。群馬県に学園疎開しますが、終戦直前に指導者で協力者の夫が急死。4人の子供と150人の生徒を抱え綾は涙をこらえます。空襲のさ中「生き残った者が栄養学の仕事を続けよう」と言った夫の言葉が支えでした。

 戦後、学園の再建に追われる中、1948年には計量スプーンと計量カップを開発。「料理のものさしは統一すべき」という科学者らしい発想でした。学園はやがて大学にまで発展し、管理栄養士制度の設立にも貢献。「健康の輪を大きく広げること」を一途に追求した生涯でした。

Profile

1899~1997年。医学博士、栄養学者。和歌山県生まれ。1926年、東京女子医学専門学校卒業後、東京帝国大学医学部の島薗内科に勤務。国民病だった脚気の治療に胚芽米が有効と証明する。1933年に夫とともに家庭食養研究会を創設、大学を含む学校法人香川栄養学園に発展させる。1935年に雑誌『栄養と料理』を創刊。脚気や結核の予防食から、ダイエット食まで時代に合わせ、バランスよく栄養を摂るための4群点数法を普及させた。