ファッションデザイナー
ソニア・リキエル
Sonia Rykiel
私は自分の生を、自分の保ちつづけていたもののすべてを、布の中に注ぎ込んだ
ボリュームたっぷりの燃えるような赤い髪、黒い服を着こなすスレンダーな肢体にミステリアスな眼差し―強烈な印象のソニア・リキエルは、パリのエスプリを体現するファッションデザイナーでした。
ソニア・リキエルは、1930年にパリ近郊のヌイィで5人姉妹の長女として誕生しました。父親はルーマニア人、母親は白系ロシア人のブルジョワ家庭でした。ソニアが生まれた瞬間、血のような赤毛に皆が仰天。その外見にたがわずお転婆で気性の強い個性的な少女に育ちます―「私は他人と違うという点を逆手にとった。それをプラスの極に置き、自明の理にし、力にした」
「幼い頃、私は服というものが嫌いだった」―年中同じ服ばかりで過ごし、母親が違う服を着せようとしても無駄でした。おめかし用のドレスには喚き散らします。でも、愛してやまなかったのは編み物が得意な母が編んでくれたセーター―「実に素晴らしいセーターたちだった」
やがて高校卒業後、デパートのウィンドウ・ディスプレイなどの仕事をするように。そして21歳で、ローラというブティックを経営するサム・リキエルと結婚し、長女を妊娠中のこと。30㎏も体重が増加し着るものに困ったソニアは、デザインも縫製も経験がないのに自分でマタニティドレスを初めて作ったのです―「隠すために、しかも見せるために作られた両義性を持つドレス」
そのドレスが好評となり、夫の店で売ることに。縫製スタッフを雇い、トリコット素材の体に馴染むドレスや子供の頃から好きだったセーターも少しずつ並べます。すると、雑誌『ELLE』にセーターが取り上げられ、名前が知られるようになります。「私たち独自のものを、今という時代の私たちの衣服を生きさせて」―こうしてソニアは、現代に生きる女性のために動きやすく洗練された服作りを追求していくのです。
そして1963年、サンジェルマンに初めて小さな店を出店。そんな中、一男一女をもうけた夫とは離婚。愛が冷めたわけではなく「挑戦心がそうさせたのかもしれない」と、自力で道を切り拓いていきます。
1968年、いよいよ本格的なメゾン「ソニア・リキエル」をオープン―「私の服は、私のために作ったもので、これが似合い、これを好きな人に着てほしい」
もともと素人だったソニアは、既成概念にとらわれない自由な発想でデザインします。「自ら夢を見、また他人に夢を見させるための、素晴らしい方法のひとつなのだから」と、スパンコールや刺繍などの装飾をあしらったカラフルなセーターや、「美は縞模様に描かれる」としたボーダー柄が大人気に。それまで普段着だったセーターがファッショナブルに変身し、『ニットの女王』と呼ばれるようになります。
さらに、「衣服の肌に触れる側、つまり裏側の方が、表側よりずっと美しい」とソニアは言い切り、縫い目を表に出し、裾かがりをしないなど革命をもたらします。
「私は自分の生を、自分の保ちつづけていたもののすべてを、布の中に注ぎ込んだ……創造への欲求なしでは、島流しにされたようなものだ」―ひたすら創造することに命を懸けていたソニアですが、パーキンソン病に見舞われ、15年もの闘病の末、86歳でこの世を去りました。
1930~2016年。ファッションデザイナー。フランス、パリ近郊ヌイィ生まれ。若くしてブティック経営者サム・リキエルと結婚(後に離婚)。1962年、夫の店に初めてデザインしたドレスやセーターを置き、注目される。1968年、サンジェルマン・デ・プレに「ソニア・リキエル」をオープン。「ニットの女王」として世界的な成功を収める。子供服や紳士服も展開。『裸で生きたい』『赤い唇』などのエッセイ、小説、童話も著す。
参考文献/『裸で生きたい』ソニア・リキエル著(文化出版局)、『ソニア・リキエルのパリ散歩』ソニア・リキエル著(集英社)
