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時を創った美しきヒロイン

ファッションデザイナー

森 英恵

Mori Hanae

この時のみじめさ、口惜しさが、
私の中でエネルギーに転化していくのを感じた

 1951(昭和26)年、まだ闇市があった東京の新宿駅近く、ラーメン店の2階に小さな洋装店「ひよしや」がオープンしました。店主は25歳の森英恵でした―「世の中にまだ何もない時代だったからこそ、服をつくるということに夢中になれた」

 森英恵、旧姓藤井英恵は、1926(大正15)年に島根県六日市町(現・吉賀町)で生まれました。兄2人と、姉、妹がおり、父親は開業医。厳格でとびきりおしゃれで、三姉妹にも東京や大阪の百貨店にメールオーダーした服を着せます。そして、自然豊かな農村でのびのび育った英恵の目に焼き付いたのは、「四季の色彩の移ろい。色とりどりの春色の世界に遊ぶ蝶々たち」でした。

 教育熱心な父は、子供全員を医者にするべく東京の杉並に勉学のために家を建てます。英恵も小学4年で上京。やがて、父の命令の医学部に背き、東京女子大学に進学。しかし、戦時下で勤労動員の日々でした。

 戦後に大学卒業後、勤労動員で知り合った会社員の森賢と、「医者と結婚を」と望む父の猛反対を押し切って結婚。程なく夫の帰りを待つだけの主婦業に飽きた英恵は、「自分と子供の服をつくれるようになりたい」と、洋裁学校に通い始めます。

 長男を身ごもりながら勉強を続け、「自分でデザインした服を人に着せたい」と思い始めた英恵は、学校修了後に新宿に店を構えたのです。物のない時代、服はつくる先から売れて評判に。夫の賢も会社を辞め経営を担当します。さらに、英恵のセンスを見込まれ映画の衣裳制作の依頼が。数百本の作品に関わりますが、睡眠時間2、3時間という多忙さ。

 さすがに疲労困憊した英恵は、家庭に戻ることを考えます。そして、その前に休暇として思い切って1ヵ月間のパリ行きを決心したのです。

 1961年、英恵はパリでオートクチュールのショーを見て回ります。中でもココ・シャネルの発表会では「女による、女のための服」と感銘。そんな素敵な思い出にとシャネルスーツを誂えたのです。サロンでは仮縫いが3回もあり、完璧なスタッフ陣が揃い、出来栄えの素晴らしさにも感動―「この仕事、やりがいあるじゃない。続けていこう!」

 その半年後、「モダンなライフスタイルの先進国に映った」ニューヨークに向かいます。そこで日本製の粗悪品ブラウスが安物で売られていること。オペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』では、珍妙な格好で下駄で畳を歩き、よよと泣くばかりの蝶々夫人に憤慨―「この時のみじめさ、口惜しさが、私の中でエネルギーに転化していくのを感じた」

 そうして1965年、ニューヨークに進出。美しい色彩の日本製布地、丁寧な縫製、ハナヱ・モリブランドの象徴となる鮮やかな蝶のデザインで大成功を収めたのです。「蝶々さんはもっと素敵で強い日本の女。それに蝶は故郷では春のシンボル。私は絶対に蝶を描くと決めた」―蝶に込めた英恵の熱い思いでした。

 この成功を足掛かりに1977年、満を持してパリにオートクチュール・メゾンを設立。厳しい審査のパリ・オートクチュール組合に認められた初の東洋人となったのです。

 日本の伝統美をエレガントにデザインし、蝶は世界に羽ばたきました―「私は衣服をつくるために生まれてきて、終わっていく人生だと、この頃しみじみ感じるのである」

Profile

1926~2022年。ファッションデザイナー。島根県生まれ。結婚後に洋裁を習い、1951年に新宿で洋装店を開く。映画黄金期に400本もの映画の衣裳を手掛ける。1965年にニューヨークに進出。1977年にはパリにオートクチュール・メゾンをオープン。厳しい審査をクリアし、パリ・オートクチュール組合に認定された初の東洋人デザイナーとなる。オリンピック日本人選手団のユニフォーム、バレエ、オペラの舞台衣裳など、多彩に活躍した。

参考文献/『グッドバイ バタフライ』森英恵著(文藝春秋)、『別冊太陽 森英恵 その仕事、その生き方』(平凡社)