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時を創った美しきヒロイン

ピアニスト

フジコ・ヘミング

Fuziko Hemming

私のピアノは誰にも弾くことのできない、私自身の世界である

 1999年2月11日、NHKでETV特集『フジコ~あるピアニストの軌跡~』が放送されました。60代後半のほぼ無名のピアニスト、フジコ・ヘミングのドキュメンタリーでした。これが大きな反響を呼んだのです。

 1931年にドイツのベルリンで、スウェーデン人画家でデザイナーのジョスタ・ゲオルギー・ヘミングと、留学中のピアニスト大月投網子が恋に落ち結婚。その年の暮れに生まれたのがフジコ・ヘミングでした。まもなく、一家は日本に移住し、3歳下の弟ウルフも生まれます。

 しかし父は、フジコが6歳の時に妻子を置いてスウェーデンに帰国。以来、母はピアノ教師をしながら子供を育てます。そして、フジコにピアノの猛特訓を開始。毎日、怒鳴られてばかりでした。しかも貧しい生活。フジコが逃避するのは夢の世界―「ちっとも貧乏なんて怖くなかった。毎日、毎日が夢見る少女だったから」「母が弾くショパンに恋した。ショパンが恋人だった」

 そして10歳の時、NHKラジオで生演奏し、「天才少女」と話題に。でも、相変わらずけなしてばかりの母が、ロシア系ドイツ人ピアニスト、レオニード・クロイツァーに弟子入りさせたのです。彼は、「この娘は将来、世界中の聴衆を魅了するピアニストになるだろう」と目を輝かせます。

 やがて戦後、16歳で中耳炎をこじらせ右耳の聴力を失うのです。それでも、東京藝術大学に進学。そして、数々のコンクールに入賞しますが、活躍の場はわずかなものでした。

「日本から出よう。出て行こう」―ドイツ留学のためパスポートを申請すると、無国籍と判明。スウェーデン国籍が末梢されていたのです。でも、どうにか赤十字の難民としてパスポートが発行されました。  1961年、念願のベルリン国立音楽大学に入学。しかし、奨学金と母からのわずかな仕送りで生活は苦しく、さらに日本の留学生からのいじめにも遭います。卒業後は、ウィーンへ。そこで、指揮者で作曲家のレナード・バーンスタインに認められ、リサイタルが決定したのです。

「夢に見た、満場の拍手の嵐がすぐ目の前」―しかしリサイタル直前、底冷えのするウィーンで暖房にかける金もなく風邪をひいたフジコは左耳まで聴こえなくなったのです。当然ながら演奏は惨憺たるものに。

「どうして、どうして!」―街角に貼られた自分のポスターに目を背け、逃げるようにスウェーデンのストックホルムへ。左耳の治療に専念し、半分近く聴力が回復します。そして、実業家となっていた父に会いに行きますが、拒まれて…。傷心のままドイツに戻り、「私の出番は天国にしかない」と夢を諦め、ピアノ教師として細々と暮らします。

 1995年、母の死をきっかけに日本に帰国。藝大の旧友たちの協力で演奏活動をしていたところを冒頭のテレビ番組が取り上げたのです。

「私のピアノは誰にも弾くことのできない、私自身の世界である」というフジコが奏でる音色は、苦難の人生で流した涙やため息が込められ、人の心に染み入ります。いつしか『魂のピアニスト』と呼ばれるように―「私の人生、最後にいいことがあった。ピアノをやめなかった私に神様がくれたごほうびじゃない」

「天国でショパンやリストに会うのが楽しみ」が口癖だったフジコが天国へ旅立ったのは92歳の時でした。

Profile

1931~2024年。ピアニスト。ドイツ、ベルリン生まれ。本名ゲオルギー・ヘミング・イングリッド・フジコ。東京で育ち、母のスパルタ式レッスンでピアノを習得。30歳でベルリン留学。1995年に帰国。テレビで取り上げられたことで大ブレイクし、デビューCD『奇蹟のカンパネラ』が驚異的な売り上げに。海外でも大人気となり、絵や衣装制作にも才能を発揮。猫や犬を愛し、慈善活動にも尽力。92歳で逝去。

引用文献/『フジコ・ヘミング 魂のピアニスト』フジコ・ヘミング著(新潮文庫)、『フジコ・ヘミング』(河出書房新社)