ロック・シンガー
ジャニス・ジョプリン
Janis Joplin
私はスターになりたくなかった。
ただ、歌うことが好きだった。
なぜって、それが、楽しいんだから
1960年代後半、アメリカのサンフランシスコで、若者たちが様々な抑圧からの解放を唱えるヒッピームーブメントが巻き起こりました。そのカリスマとなったのがロックスター、ジャニス・ジョプリンです。
ジャニス・ジョプリンは、1943年にテキサス州のポート・アーサーで生まれました。両親ともに大学を出ている中流家庭で、地場産業である石油会社に勤める父親の趣味は読書。その影響で、ジャニスも幼くして熱心な読書家となります。
「すごく感じやすい子供だった。ガキの頃は、普通と違ったらつらいんだよ」――成績は優秀でしたが団体行動が苦手で自意識が強いジャニスは、思春期に容姿に強烈なコンプレックスを抱えます。鬱屈したジャニスが共感したのが、自由気ままな生き方を目指す前衛的なビートニク思想。ビートニク作家ジャック・ケルアックなどの本を読み漁ります。
さらに夢中になったのが、戦前に活躍したベッシー・スミスなどの黒人ブルースシンガーでした――「ベッシーに心底惚れて、完全にコピーして歌った」。歌うことに心の自由を見出す一方で、学校で人種差別反対を叫びます。黒人差別が根強い南部では常軌を逸した行動。完全に嫌われ者となります――「みんなで物笑いにして、クラスから、街から、州から、私を除け者にした」
高校卒業後、地元の大学に進学しますが、またもいじめに遭いドロップアウト。保守的な南部で閉塞感に苦しみ、「テキサスから出ていく」ことしか頭になかったジャニスは、西海岸とテキサスを行ったり来たりしながら、いくつかのカレッジに通い、人前で歌うようになります。
そして1966年、女性ボーカルを探していたバンドに誘われ再びサンフランシスコへ。売れずに困窮していた翌年、大規模音楽イベント、モントレー・ポップ・フェスティバルに出演。とうもろこし色の髪を振り乱しソウルフルに歌うジャニスに観衆は度肝を抜かれます。この日からスターダムにのし上がるのです。
それまで学生のままの恰好だったジャニスに、親友が衣裳を制作。ベルベットのパンタロン、レースや刺繍のトップス、アンティークのショールなどでエレガントに変身。トレードマークとなった幾重ものビーズのブレスレットとネックレスは、自ら精魂込めて紡いだものでした。
こうして、ヒッピー世代が彼女の心を解き放つような歌声に共鳴。一気に名声を得ますが、「この間まで、私が生きてるかどうかなんて、誰も気にかけてくれなかった」と、戸惑います。それでも「私は歌手になった時も、スターになりたくなかった。ただ、歌うことが好きだった。なぜって、それが、楽しいんだから」と、音楽の道を追求していくのです。しかし、ステージから降りると、はかり知れない孤独感が…。虜となったのが酒とドラッグでした。
1970年9月、アルバム『パール』(パールはジャニスの愛称)のレコーディングがロサンゼルスで始まります。録音は順調に進み、残り1曲の録音日10月4日、ホテルの床で冷たくなっているジャニスが発見されました。ヘロインの過剰摂取とされました。未完のアルバム『パール』は、名盤となり記録的大ヒットとなります。「私は燃えていたい。燃え尽きるまで燃えていたい」――熱く駆け抜けた27年の生涯でした。
1943~1970年。ロック・シンガー。アメリカのテキサス州生まれ。高校卒業後、いくつかのカレッジに学びながら、ギター弾き語りで歌うようになる。1966年、サンフランシスコのバンドのボーカルとなり、1967年6月、モントレー・ポップ・フェスティバルに出場、注目を集める。1970年、アルバム録音中に他界。死後に発売されたアルバム『パール』は歴史的大ヒットに。収録曲「クライ・ベイビー」は香水のCMソングに使われた。