獣医学博士
増井 光子
Masui Mitsuko
世界中の動物たちを相手に、
仕事をすること。それが私の願い
「人形やおもちゃよりミミズやヘビのほうが好き」という幼い少女が長じて、日本で女性初の動物園獣医師となり、動物園の園長にもなりました。その人は増井光子、海外でも有名な「ミツコ・マスイ」でした。
増井光子は、1937(昭和12)年に大阪市東成区で生まれました。工業用石鹸の製造業を営む実家は街中にありましたが、光子は物心つく頃から、夕方に飛ぶコウモリ、時に姿を見せるヘビ、トンボ、縁の下のダンゴムシ、ゴミ捨て場のハサミムシなど動くものに興味津々でした。
小学校2年で、戦争激化のため奈良県境の生駒山麓に疎開。自然豊かな里山に光子の目は輝きます。日の出前から野山で昆虫や小動物を観察してから登校。帰宅後もすぐに虫や魚、カエル採りに熱中。さらに、ウサギや犬の繁殖をするうちに「生来の動物好きは、成長するにつれて私の心の中に積乱雲のごとくモクモクとわきあがり、何が何でも動物に関した職業につこうと決心していた」。
高校卒業後、神奈川県にある麻布獣医科大学(現・麻布大学)に進学。愛犬を連れての上京で、入学生の中で女子は2名だけでした。「将来は動物園で働く」と決めていた光子は、大型動物に慣れようと馬術部に入部。乗馬より餌の草刈りや寝藁の清掃など厩舎作業に精を出します。
「世界中の動物たちを相手に、仕事をすること。それが私の願い」―大学4年の夏、40日間、動物園で実習をしますが就職は難関でした。上野動物園に直談判しても空きがないと門前払い。本当の理由は女性ということ。まず前例がありませんでした。光子は諦めません。「無給でもいい」「絶対に辞めません」としつこく食い下がって翌年、どうにか臨時職員として採用されたのです。
力仕事も学生時代の厩舎作業に比べたらなんのその。でも、動物からは薬品臭いし、注射を打つから嫌われます。それでも「見るもの触れるものすべてが未知の世界で、息をもつけぬ面白さ」でした。そして、あまりの熱心さに「上野動物園に(増井という)珍獣がいる」と噂になり、ついに正規職員となったのです。
やがて1985年、パンダの人工繁殖に日本で初めて成功。大きなニュースとなりました。そして1990年、多摩動物公園の園長に、2年後には上野動物園園長に就任。女性で初めての園長でした。しかし、動物を閉じ込めているという批判も出るように。光子はこう考えます。「このたったひとつの地球に住む生物どうし、お互いに理解して、文字通り共存共栄していくための、橋渡しをしている所」「野生から派遣された大使に触れる所」。そのために世界中の園と協力して人工繁殖などで種の保存に力を入れていくのです。
1999年にはよこはま動物園ズーラシアの初代園長に。各動物の生息環境を再現した画期的な展示に心を砕きます。さらに、兵庫県立コウノトリの郷公園の園長も兼任。コウノトリの保護と繁殖、やがて自然への放鳥、野外繁殖へと導きます。
多忙を極める中、国内外の野生動物の野外調査をし、マラソンや乗馬に打ち込み、人馬一体で長距離を走破する競技エンデュランスにも挑戦。乗馬のオリンピック選手を目指しますが、73歳の時にイギリスでの馬術競技大会で落馬。不慮の死を遂げます。「願えば叶う」を信条に一目散に夢を追い続けた生涯でした。
1937~2010年。獣医学博士。大阪府生まれ。麻布獣医科大学卒業。昭和34年、上野動物園に勤務。昭和60年に日本で初めてパンダの人工繁殖に成功。井の頭自然文化園長、多摩動物公園長、上野動物園長を経て、よこはま動物園ズーラシアの初代園長に。同時に兵庫県立コウノトリの郷公園園長を兼任。動物園の獣医師、動物園長は日本で女性初。動物に関する著書多数。マラソンランナーで、エンデュランス(騎乗マラソン)の選手でも活躍。
参考文献/『動物が好きだから』増井光子著(どうぶつ社)、『あの人に聞きたい 私の選んだ道』実業之日本社進路指導net.
