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時を創った美しきヒロイン

時を創った美しきヒロイン

画家

タマラ・ド・レンピッカ

Tamara de Lempicka

私は常に私の心の命ずるままに生きたかったのです

 タマラ・ド・レンピッカは、1920年代に最盛期を迎えたアール・デコの寵児とされた画家でしたが、長らく忘れ去られた存在でした。それが1970年代、タマラの回顧展が開催され再評価されたのです。特に注目を浴びたのが、代表作『自画像(緑色のブガッティに乗るタマラ)』。ヘルメット姿で最新の車に乗り、冷ややかなまなざしで睥睨する美女タマラが描かれた作品です。「自動車時代の女神――鋼鉄の瞳を持つ女」「恐るべき存在が心を貫く」などと評されました。

 タマラは、1898年にロシア帝政下にあったポーランドで、裕福な家庭に誕生しました。絵が上手で、わがままで勝気な性格でした。祖母に連れられイタリア中の名画を観て回る優雅な少女時代を過ごします。

 そして15歳の時、ロシアのペテルブルグで美貌のプレイボーイ、タデウシュ・レンピッキに心奪われたタマラは、持ち前の負けず嫌いで大勢のライバルを押しのけ18歳で結婚。タマラ・ド・レンピッカ(レンピッキの女性形)となったのです。

「豪華船に乗っていたはずが、気づいた時には、もう大嵐」――1917年、ロシア革命が勃発。革命軍に連行された夫を、タマラはあらゆる手段を使って救出。命からがらパリに辿り着きます。まもなく一人娘キゼットが生まれますが、夫に働く気は失せ、指輪もパン代に消え…。

 床に這いつくばり小銭を探すみじめな生活の中、すでに建築家の道を歩み始めていたタマラの妹が「得意な絵を描いてみれば」と勧めます。妹の援助のもと絵画教室で学び、初めて描いた絵がすぐに売れ幸運なスタートを切ったのです――「私は生活のために絵を描き始めました。もし、夫がよき働き手であったら、画家タマラ・ド・レンピッカはこの世に存在しなかったでしょう」

「私のモットーは、模倣するな!」
――明快な色彩、ダイナミックな構図、エレガントで官能的なタマラの絵は、たちまち人気となり、上流階級の人々がこぞって肖像画を依頼。天性の美貌に加え、並外れた美的センスで、社交界の華となったタマラは、絵は仕事と割り切って描きに描きまくったのです――「私にとって、仕事は成功、お金、栄誉を意味しているにすぎませんでした」

 そして、奔放に恋愛を繰り返すタマラ――「私は常に私の心の命ずるままに生きたかったのです」

 1927年、タデウシュはそんな妻のもとを去ります。それでも、「私の目標は常に最高の中の最高を手中にすること」と言い放つタマラは、1933年、ハンガリー一の大地主クフナー男爵と再婚。「絵筆を持つ男爵夫人」となったのです。

 しかし、ナチスが台頭すると、タマラの胸にロシア革命の恐怖が蘇ります。誰もまだナチスを警戒していなかった時に、タマラは渋る夫を説き伏せてアメリカへ逃れたのです。

 新天地でタマラは、純粋な芸術的衝動にかられて、貧しい人々や宗教をテーマにするように。でも、皮肉にも評価は得られませんでした。自尊心を傷つけられたタマラは、画壇と決別しますが、終生絵筆は離しませんでした――「私に残されたものはただひとつ、ひたすら絵を描くこと、それだけでした」。欲しい物はすべて手に入れ、激動の人生を生きたタマラが、メキシコの高級保養地で亡くなったのは82歳の時でした。

Profile

1898~1980年。画家。ポーランド、ワルシャワの上流階級に生まれる。18歳でタデウシュ・レンピッキと結婚。ロシア革命でパリへ亡命。生活に窮して描いた絵が売れ、たちまちアール・デコの寵児となり一世を風靡する。娘のキゼットを描いた絵はボルドー国際美術賞に輝く。1933年にクフナー男爵と再婚。ナチスの台頭でアメリカへ移住。晩年はメキシコで暮らした。