ファッションデザイナー
ココ・シャネル
Coco Chanel
私は女の肉体に自由を取り戻させた
1910年、パリの中心地カンボン通りに、27歳のココ・シャネルが帽子店をオープンします。羽根や果物で飾り立てた装飾過剰な帽子が主流の時に、シャネルが売り出したのは、ごくシンプルな帽子でした。
「不必要なものはすべて取ってしまうの。私は前に進むわ。ファッションとは、時代を先取りすることよ」――やがて、この小さな店が世界に名だたるシャネルブランドへと羽ばたいていくのです。
ココ・シャネル、本名ガブリエルは、1883年にフランスの田舎町で貧困家庭に生まれました。母が病苦のうちに亡くなると、父は修道院付属の孤児院に、シャネルたち姉妹を置き去りに。こうした出自と少女時代を、シャネルは終生明かすことはありませんでした。この屈辱感、劣等感が強烈な原動力となり、シャネルを前へ前へと突き動かします。
そして、装飾を排した修道院の建物や白と黒の簡素で機能的な制服…。少女の心に刻まれた禁欲的でシンプルな生活の記憶が、シャネルのデザインの原点ともなっていきます。
年頃になって孤児院を出たシャネルはキャバレーの歌手として人気に。この頃の愛称ココを生涯名乗るようになります。やがて、おしゃれな着こなしに定評があったシャネルは、帽子店を開店。すると、シンプルな帽子が評判となります。次にシャネルが創ったのは、帽子にコーディネートさせたシンプルで機能的な服。
コルセットでウエストを締め上げドレスの裾を引きずっていた時代に、なんと、コルセットを取り払ったスカート丈の短い服を売り出したのです。下着用ジャージー素材の活動的なスーツやマリンルックがたちまち大評判に! 折しも、第一次世界大戦が勃発。富裕階級の女性たちは男性に代わって外へ出る必要にかられます。女性が社会進出し始めた状況にぴったりのファッションでした。
「私は女の肉体に自由を取り戻させた」――シャネルはファッションに革命を起こしたのです。今では当たり前の女性のパンツスタイル、模造ジュエリー、ショルダーバッグ、ショートヘア…、すべてシャネルが考案したもの。それまでの古いファッションを次々に葬ったことから、シャネルは「皆殺しの天使」とまで呼ばれるようになります。
第二次世界大戦が始まると、ドイツの占領下になったパリで、シャネルは美貌のナチス将校と恋に落ちます。戦後、ドイツ軍協力者への報復が始まりスイスに亡命。しかし、前へ進むことだけが生き甲斐のシャネルに隠遁生活はつらいものでした。
「私は続けたいの、続けて、勝ちたいの」――1954年、70歳でファッション界にカムバックしますが、フランス人はまだ彼女を許さず酷評。でも、ツイードのスーツが世界中で爆発的な人気を呼んだのです。不死鳥のごとくモード界に君臨したシャネルが新作の発表を控え、眠るように亡くなったのは87歳の時。
裕福な実業家やイギリスの名門貴族などとの華やかな恋愛もありましたが、身分制度が厳然とあった時代。結婚はかなわず、自力で運命を切り拓き、サクセスストーリーを歩んだシャネルの力強い言葉です――「私は自分で引いた道をまっすぐ進んでいくわ」「私は獅子座のもとに生まれた女王蜂」
1883~1971年。ファッションデザイナー。フランス南西部生まれ。本名ガブリエル、通称ココ。12歳で母が病死、孤児院で育つ。20世紀初頭に帽子デザイナーから出発し、ファッションデザイナーとなる。コルセットを取り払い、脚を出した機能的なドレスで新しい時代の女性たちの心を捉える。香水やアクセサリー、バッグなども人気に。