イングランド王ヘンリー8世の第2王妃
アン・ブーリン
Anne Boleyn
あなたが祈る時、私のことを思い出して
2015年5月、イギリスでシャーロット王女が誕生して祝福ムードに包まれました。英国王室は世界中が注目するロイヤルファミリーですが、その歴史には数々の血塗られたエピソードも…。中でも16世紀には、王女を産んだために斬首刑となった悲劇の王妃がいたのです。
王妃の名は、アン・ブーリン。官職にあったブーリン家の次女として1507年頃に誕生しました。幼い頃から才気煥発な少女でした。
やがて、治世していたヘンリー8世の妹がフランス王に嫁ぎ、その侍女としてアンはフランスに渡ります。当時、ヨーロッパの弱小国家だった英国と違い、フランスはエレガンスを極めた華麗な宮廷文化を誇っていました。そんな優雅な環境の中、アンは洗練されたフランス風の感性やマナー、話術を身に付けたのです。
1522年に帰国したアンは、ヘンリー8世の王妃キャサリンの侍女として英国宮廷にデビューします。フランス仕込みのファッション、優雅な立ち居振る舞い、豊かな黒髪にスレンダーな容姿のアンは、一躍宮廷で注目の的となります。そのアンに〝恋の矢を射ぬかれた〟のは、他でもないヘンリー8世でした。
ヘンリーはアンに愛人となるよう迫ります。しかし、アンは「私は純潔を夫に捧げます」と拒否したのです。ヘンリーの恋の炎はますます燃え盛ります。キャサリン妃との間には王女しか子どもがいなく、ヘンリーは息子の誕生を切望していました。アンにそれを望んだのです。
度重なる求愛に、ついにアンは「愛人ではなく、お妃にしてください」と、結婚を条件に王を受け入れます。「波間で翻弄される船にただ一人乗っている乙女」と自分を例えたアンは、王を共に航海してくれる信頼すべき相手と認めたのです。
しかし、ローマ教皇は王の離婚を認めません。業を煮やしたヘンリーは、ローマ・カトリック教会と絶縁。自らイングランド国教会を設立し、その頂点に立ちました。
1533年5月25日、キャサリン妃との離婚を宣言。6月1日、アンは戴冠式に臨みます。しかし、9月7日、アンが産んだのは女児でした。エリザベスと名付けられます。ヘンリーの落胆は大きく、次の愛人を作り、アンへの愛は冷めていきます。
1536年1月、アンは男の子を流産。ヘンリーは「私はそなたを王妃にした。なのに、私の息子を殺した」という言葉を吐き、アンのもとを去ります。愛は憎悪へと変わり、ヘンリーは、アンに反逆罪と姦通罪の濡れ衣を着せて牢獄送りに。
1536年5月19日、アンは斬首刑に処せられました。最期の時まで落ち着いていたアンは、静かに運命を受け入れたと伝わっています――「王の健康を祈っています。唯一の心残りは幼いエリザベスです。神よ、娘をお守りください」。アンが肌身離さず持っていた祈祷書が遺され、その隅には「あなたが祈る時、私のことを思い出して」と記されていました。愛娘への遺言でした。
処刑から22年後、その娘は、エリザベス1世となって君臨。そして、強大な大英帝国へと導いていくのです。女王の指にはめられたロケット付きの指輪には、自分の肖像画と母の肖像画が忍ばせてありました…。国のあり方まで変えたアンの熱愛から悲劇へのドラマは、昔も今も人々の興味を魅きつけてやみません。
1507〜1536年。イングランド王ヘンリー8世の第2王妃。フランス宮廷で3年間過ごし帰国。第1王妃キャサリンの侍女となり、ヘンリーに見初められる。ヘンリーは離婚を認めないローマ教皇と絶縁までしてアンと正式結婚。しかし、第一子が女の子で、第二子の男児を流産したことから断頭台へ送られる。処刑の場となった世界遺産ロンドン塔には、今もアンの亡霊がさまよっていると囁かれている。