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時を創った美しきヒロイン

建築家

ザハ・ハディット

Zaha Hadid

11歳頃には本能的に
建築家になりたいと思った

 2020年東京オリンピックのシンボルとなる新国立競技場は、世界的に有名な建築家ザハ・ハディット案の流線型の近未来的なデザインに決定していました。しかし、巨大すぎて景観を損なう、総工費が巨額すぎるなどの批判に、着工目前に白紙撤回となり幻に終わったのでした。

 ザハ・ハディットは、1950年にイラクのバグダッドで誕生しました。当時のバグダッドは自由な雰囲気にあふれる国際都市で、父親は革新系の有力政治家。育った家は「1930年代に建てられた非常にすてきな住宅で、1950年代のファンキーな家具がおいてありました」。そして、イラク南部のシュメール遺跡の村々の美しさ、夏休みに欧米の建築作品に触れたことなどから、建築に興味を深めます――「両親とも芸術、建築などに関心が高く、自由な発想が育てられた。11歳頃には本能的に建築家になりたいと思った」

 長じてベイルートの大学で数学を学んだ後に、ロンドンのAAスクール(英国建築協会付属建築学校)で建築を学びます。その頃、イラクでは独裁者サダム・フセインが台頭し、ザハの家族は国外に脱出。ザハは帰るべき故郷を永遠に失ったのです。やがて、1980年にロンドンに自分の事務所を設立します。

 そして、数々のコンペ(建築設計競技)に野心的な作品を提出。いくつも勝利を勝ち取り、評価を高めます。しかし、デザインが斬新すぎて施工が難しく、工費も高額になることから、実現することはありませんでした。そのため、ザハは「アンビルト(建たず)の女王」という有り難くない称号を得たのです。

「無視され侮辱されていたころは、いつもそれは一時的なものだと思っていました。……私は基本的には楽観主義で、いずれあの状態から脱することがわかっていましたから」
「誰からも関心を持たれなかった何年何カ月もの間、我々はすさまじい量のリサーチをやり、そのおかげで新たな発案をし、仕事に取りかかるための偉大な才能を手にした」


 やがて長い雌伏の時を経て、時代がザハに追いつきます。「妥協は私のスタイルではない」という設計案が、建築技術やコンピュータ・プログラムの革新で実現可能となったのです。1994年、ドイツの小さな消防署が完成。ザハにとって初めての実現でした。以後、次々にプロジェクトを完成させていきます。

 優美な曲線を駆使した大胆で斬新なデザインは、まさに未来の先取り。称号も「曲線の女王」と変わります。そんなザハに、国力のある国が競って仕事を依頼します。ローマの国立21世紀美術館、ロンドンの水泳競技場、中国・北京の複合施設「銀河SOHO」などから、図書館、工場、駅、橋など幅広く手掛けます。その人気ぶりに模倣建築も出現します。

 2004年には建築界のノーベル賞とされるプリツカー賞を女性で初めて受賞。「女性に建物は建てられない」という偏見ともザハは闘ってきたのです――「女性がプロとして仕事をするのは、今でも大変難しい。私に対する抵抗は今でもあって、これは活動力の糧になっています」

 そして、「次に向かって前進することは大切。そうして、新しい発明が起こるのです」と未来を見据えていたザハは、2016年に残念ながら65歳で急逝。幻想的で奇跡のような建築物を地球上に散りばめて…。

Profile

1950~2016年。建築家。イラクのバグダッド生まれ。1972年にロンドンの建築学校で学び、1980年に自分の事務所を構える。数々のコンペに勝利するも、あまりにも独創的なデザインのため建築できなかった。1994年、ドイツのヴィトラ社消防署の建設を皮切りに次々にプロジェクトを完成。2004年、女性初のプリツカー賞受賞、他多くの賞に輝く。数人で始まった事務所は総勢430人までに発展。没後もザハの設計案で竣工が続いている。