詩人
エミリー・ディキンソン
Emily Dickinson
意志を持って/わたしは選ぶ たった一つの王冠を
1886年5月15日、アメリカ・マサチューセッツ州の小さな町アマーストで、55歳の女性がひっそりと息を引き取りました。女性の妹が部屋を整理すると、引き出しにはおよそ1800篇にものぼる膨大な詩稿が仕舞われていたのです。
「わたしは誰でもない人!……まっぴらね――誰かである――なんてこと!」――生涯無名のまま生きた女性の名は、エミリー・ディキンソン。現在、アメリカ文学史上最高の詩人と評価されているのです。
エミリーは、1830年にアマーストの名家に生まれました。父は弁護士で国会議員にもなった名士で、エミリーはのびやかに育ちます。「わたしは近頃めきめき美しくなってるの。17になったらたぶんアマーストの華よ」という手紙を書くような、快活で作文が得意な少女でした。
やがて、17歳でアメリカ最初の女子大学マウント・ホリヨーク女学院に進学。寄宿生活を始めますが、学校に馴染むことが出来ず、1年で退学します。自宅に戻ったエミリーは病弱な母親に代わって家事をしながら、文学書を読みふけり、詩作に熱い意欲を見出していきます。
しかし、〝小説は女の心を退廃させる〟と考えられていた当時、権威的な父親は娘の文学趣味を理解できず、読書を禁止。エミリーは父親に激しく反論しますが、その葛藤の中で密やかに詩作を続けることを決意します――「意志を持って/わたしは選ぶ たった一つの王冠を」
友人に自作の詩を送ることもありました。その斬新な詩に感動した友人が地方紙に投稿。数篇の詩が掲載されます。しかし、ヴィクトリア朝風の優雅な詩が人気だったため、時代の先を行く彼女の独創的な詩は大幅に訂正されて載っていました。
32歳の頃、エミリーは勇気を出して批評家のヒギンソンに評価を仰ぎます。豊かな想像力、ユニークな比喩、韻律を無視した自由な詩にヒギンソンは当惑。言葉を濁して手直しするなら出版も可能と応えます。自信のあったエミリーは毅然として名声を求めずに生きることを誓ったのです――「出版 それは/心の競売」「素足の地位の方がよいのです」
そうして、次第にエミリーは外出も滅多にせず家にこもるように。そんなエミリーは町の人々にとって伝説的な存在となっていきます。
実際のエミリーは、来客は同居の妹に任せ、大好きな庭仕事にいそしみ、足もとの虫から宇宙まで自然を鋭く観察します。丹精した花に詩を添えて友人に贈ります。手作りのパンやクッキーを近所の子供たちにプレゼントすることも度々でした。
「果樹園が宝石のように煌めいた/この途方もなく素晴らしい場所」
一生独身で暮らしたエミリーにも心ときめかした恋がいくつかあったとされています――「ああ、海よ!/今宵こそ――あなたの胸に/錨をおろせたら!」
女性が自己表現するなど慎むべき時代、保守的な田舎町でエミリーは内なる自由な大空に羽ばたいていたのです――「わたしは可能性に住んでいる/散文よりも美しい家」「わたしは荒野を見たことがない/わたしは海を見たことがない/でも知ってます、ヒースがどのように見えるかを/大波がどんなものかを」
エミリーが紡いだみずみずしい詩の数々は、21世紀に生きる私達に生き生きと語りかけてくるのです。
1830〜1886年。詩人。アメリカのマサチューセッツ州アマーストの名家に生まれる。祖父が創立したアマースト学園に学び、マウント・ホリヨーク女学院に進学。1年で退学し自宅に戻る。次第に外出することが減り、自室で詩作に励むように。生前、数篇の詩が地方紙に掲載されたが、彼女の死後に発見された膨大な詩を遺族が出版したことから評価が高まった。