女優
サラ・ベルナール
Sarah Bernhardt
これが私の運命。舞台こそ、私の生きる場所となるのだ
19世紀末から20世紀初頭、フランスのパリは世界の文化・芸術の中心都市として栄華を極め、ベル・エポック(良き時代)と呼ばれました。この時代の象徴として君臨したのが女優サラ・ベルナールです。その名声は、欧米全土に知れ渡り、ミューズの名をほしいままにしたのです。小説家永井荷風は、ニューヨークでサラの舞台を何度か鑑賞。「ああ余は幸にして世界第一の悲劇女優の技芸を親しく目睹する事を得たり。余が渡航の目的達せられたるなり」と、その感動を日誌に記しています。
サラ・ベルナールは、1844年にパリで、ドイツから流れてきた女性の私生児として生まれました。すぐに里子に出され、孤独の中で夢見ていたのは、「私を愛してくれる小説に出てくるような母親」でした。
サラは15歳で、高級娼婦となっていた母親のもとに戻ります。家には、それぞれ父親の異なる妹たちがいて、母親の愛を独占…。そんな中、母親に連れられて、コメディー・フランセーズ(国立劇場)で初めて芝居を観た夜。サラは、たちまち舞台に魅せられ、女優こそ天職と確信したのです――「これが私の運命。舞台こそ、私の生きる場所となるのだ」
そして、難関のコンセルヴァトワール(国立音楽演劇学校)に入学。2年間の修業の後、名門のコメディー・フランセーズに採用されます。しかし、幹部女優に意地悪をされ、サラはコメディー・フランセーズを飛び出してしまうのです。
生きるために商業演劇の道に入ったサラは、ベルギーの貴族と恋に落ち、20歳で男の子を出産。生涯慈しむことになるモーリスでした。やがて、名門劇場オデオン座と契約。いくつかの作品に出演後、コペ作の『去り行く人』に男役で登場。これが大成功を収めたのです。
「なんという繊細優美、甘美な魅力」と、高名な批評家が大絶賛。そして、サラの印象的な美声は「黄金の声」と称えられ、目の動きだけで観客を虜にする瞳は「神秘の窓」と謳われます。28歳で出演したユゴー作の『リュイ・ブラス』の王妃役には観客が熱狂――「私はとうとう選ばれた存在になったのだ」
その成功で、サラは10年ぶりにコメディー・フランセーズに呼び戻されます。そこで看板女優としての名声を得たサラは、初のロンドン公演に臨みます。「私は苦悩し、涙し、嘆願し、泣き叫んだ。そして、すべては本当のことなのだ」――役柄になりきったサラに、観客は息をのみ、万雷の拍手を浴びせたのでした。
しかし、自分が演じたい脚本を拒否され、憤慨したサラは36歳で独立。より広い世界を目指します――「異なる空気、より広大な空間、異なる風土を知る必要性」。自分が理想とする舞台芸術を追求し、アジアと南アフリカを除く五大陸を飛び回ったのです。そんな母親を、息子のモーリスは「鳥のママン」と呼びました。
幼い頃から母親の愛を渇望したサラが代わりに得た幸福は、観客の喝采でした。その喝采に応えるために、悲劇も喜劇も男役も見事にこなし、発明されたばかりのサイレント映画にも挑戦。70歳で右脚を切断する不運に見舞われますが、椅子に座ったままで演じ続けました。
「何が何でもやりぬいてみせる」という不屈の精神で女優業を貫いたサラが亡くなったのは79歳の時。ハリウッド映画を撮影中のことでした。
1844〜1923年。女優。パリ生まれ。名門劇場コメディー・フランセーズで18歳で初舞台を踏む。36歳で劇団を結成。世界中を巡演し、国際的女優のパイオニアとなる。作家ユゴー、プルースト、詩人オスカー・ワイルド、画家ミュシャなどのミューズとして君臨。1914年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。生涯現役を貫き、葬儀は国葬として盛大に執り行われた。