歌手
淡谷 のり子
Noriko Awaya
したいと思ったことはした、
したくないことは
しなかった
日本が戦争で泥沼化した時代、「ぜいたくは敵だ!」などの標語が叫ばれました。そして、女性はパーマ禁止、モンペ着用となります。その時勢にたった一人、真っ赤な口紅とマニキュア、華やかなドレスにハイヒールで通した歌手淡谷のり子がいました。度々の弾圧にも「これは私の戦闘服よ」と屈しません。
淡谷のり子は、1907(明治40)年に青森市で誕生しました。生家は呉服商を営む豪商で、下に妹のとし子がいます。祖母はのり子を溺愛、贅沢に、わがままし放題に育てます。
しかし、青森大火で店が全焼し没落。愛人宅に有り金を持ち去った父は家に戻りません。夫の放蕩三昧に笑顔で耐えてきた母みねは、つらいばかりの故郷を去ることを決意。「女3人が力を合わせれば飢え死にすることはない」――こうして大正12年4月7日、母33歳、のり子16歳、とし子14歳は東京に旅立ったのです。
のり子は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)のピアノ科に入学。音楽なら女でも自活できるという母の考えからでした。間もなく天性の美声を見抜かれ声楽科に編入します。
しかし、母の内職だけではすぐに困窮。とし子は眼病で失明の危機に瀕し、治療費も必要になってきます。のり子は休学し、「一家心中する気があればなんでもできる」と、絵のヌードモデル業に飛び込みました。初日は恥ずかしさのあまり失神してしまいますが、すぐに売れっ子に。雪のような白い肌、猫のような目に人気が集まったのです。そして、学校を離れている間にのり子は音楽への愛に気づくのです――「私には歌しかない! 歌をやるんだ」
こうして復学後、猛勉強に励み、21歳の春に音楽学校を首席で卒業。初めてのステージでは、新聞が「十年に一度のソプラノ」と絶賛します。
しかし、クラシックだけでは食べていけません。さらに、高尚なものとされるクラシックより、大衆に支持されるジャズやタンゴ、シャンソンに惹かれていきます。苦渋の末にレコード会社と契約。流行歌手となったのです――「クラシックを断念するのはつらいけれど、とびきりいい流行歌を歌っていけばいい」
やがて、昭和12年に吹き込んだ『別れのブルース』が空前の大ヒット。翌年の『雨のブルース』も大ヒットし、「ブルースの女王」として一躍大スターとなったのです。「歌のためならすべてを犠牲にできる」――たった一度の結婚もすぐに解消。そして、プロとして人を魅せることも意識。日本で初めてつけまつ毛やアイシャドウを取り入れました。
しかし、その成功の陰で資産家の息子との結ばれぬ恋がありました。彼は中国で急死し、お胎には忘れ形見が…。母は咎めも詮索もせず「子どもはいいものよ」と応援。のり子は迷いを捨て一人娘を産みました。
そして、自由が失われた戦時中、「歌は人の心に生きることの喜びを与えるもの」と、モンペも軍歌も拒否。慰問は、軍に束縛されない無料奉仕に徹して戦場を回ります。
「権威や権力は大嫌い。意に染まないことを受け入れるなんてまっぴら」という思いで反骨精神を貫いたのり子は、戦後も歯に衣着せぬ物言いで活躍しました。「したいと思ったことはした、したくないことはしなかった」という見事なじょっぱり(津軽弁で強情っぱり)人生に幕を下ろしたのは92歳の時でした。
1907~1999年。歌手。青森市生まれ。昭和4年、東洋音楽学校を首席で卒業。ソプラノ歌手として期待されるが、生活のために流行歌手に転向。ジャズ、ブルース、タンゴ、シャンソンを勉強。日本でシャンソン歌手第1号となる。昭和12年『別れのブルース』と翌年『雨のブルース』が大ヒット、ブルースの女王と呼ばれる。戦時中、軍歌を拒否、ドレス姿を貫き憲兵に睨まれる。生涯現役で活躍した。