作家、婦人解放運動家
伊藤 野枝
Noe Itou
吹けよ あれよ 風よ あらしよ
1912年(大正元年)秋、前年に創刊された女性文芸誌『青鞜』編集部に、18歳の伊藤野枝が加わります。編集長の平塚らいてうは、野枝に「ただ素朴な野性的な美しい少女」という印象を抱きます。その野枝は、婚家を出奔し恋人と同棲中の身。10代にして波乱万丈で、2年後には『青鞜』の編集長になるのです。
伊藤野枝は、1895(明治28)年、九州の今宿村(現・福岡市)の貧しい家に、7人兄弟の3番目に誕生しました。そして、高等小学校卒業後、村の郵便局で働き始めます。
しかし、〝ここから抜け出し、東京で勉強したい〟と、向上心旺盛な野枝は切に願うように。そこで頼ったのが、東京にいる裕福な叔父でした。「必ず何倍にもご恩返しします」と、何通もの手紙を送りつけます。
ついに根負けした叔父は、野枝の上京を許可。猛勉強の末、野枝は上野高等女学校(現・上野学園)の4年に飛び級で編入学。そこで、博学で文学にも詳しい英語教師の辻潤と親しくなっていきます。
その頃、故郷では野枝の縁談がまとまっていました。卒業後、福岡の婚家へ入った野枝は、数日で逃げ出し、辻のもとに飛び込みます。この事件で辻は退職。無職となった辻は、10歳年下の野枝にありったけの知識を授けることに熱意を傾けます。『青鞜』を教えたのも辻でした。
そうして野枝は、『青鞜』編集部を訪ね、らいてうに採用されたのです。やがて、多くの記事を書くようになった野枝は、20歳で『青鞜』を引き継ぎます。そして、様々な社会の矛盾や問題に目を見開いていきます。
辻と正式に結婚して二児も授かりますが、語り合うべき辻は世間に冷めた眼差しを向けるだけ…。
夫に失望する野枝の前に現れたのが、行動的で魅力的な無政府主義者・大杉栄でした。 「本当に自分の行くべき道の障礙(家庭のこと)となる場合は止むを得ない」――野枝は夫と子供を捨て、大杉のもとに奔ります。
その大杉は「フリーラブ」を提唱し、妻の保子の他に、愛人の新聞記者神近市子、そこに野枝が加わり四角関係に。しかし、嫉妬にかられた神近が、1916(大正5)年11月9日、神奈川県葉山の旅館日蔭茶屋で、大杉に切り付けたのです。
事件後、保子は離縁、神近は入獄。恋の勝利者となったのは21歳の野枝でした。その野枝に、世間の非難が集中。しかし、野枝はひるみませんでした――「背負いきれぬほどの悪名と反感とを贈られて(中略)、私は新たな世界へ一歩踏み出した」
『青鞜』は廃刊となり、野枝は大杉と共に、個人の自由を得るために権力と闘うのです。そのため二人は、当局に危険視され、尾行が開始されます――「私は人間が同じ人間に対して特別な圧迫を加えたり不都合をするのを黙って見てはいられない」
1923年8月初め、大杉との共訳でファーブルの『科学の不思議』を刊行し、辻との長男一に届けます。9日には、大杉との5番目の子、ネストルを出産。そして、9月1日関東大震災が発生。混乱が続く16日、大杉と野枝、甥の6歳の橘宗一は外出先で憲兵隊に拉致され、その日のうちに3人とも虐殺されました。
「吹けよ あれよ 風よ あらしよ」――野枝が好んで色紙に書いた言葉です。まさに嵐のように28年間を生きた野枝の生涯でした。
1895~1923年。作家、婦人解放運動家。福岡県生まれ。14歳で上野高等女学校に編入学。卒業後、郷里の婚家先を出奔、恩師の辻潤(後にダダイストとして有名に)と一緒になる。雑誌『青鞜』に参加し、評論・小説・翻訳を発表。20歳で編集長になる。記事を通して無政府主義者の大杉栄と結ばれる。日本が軍国主義にひた走る中、自由を求めて闘うが、関東大震災直後、憲兵隊に虐殺された。