医師
荻野 吟子
Ginko Ogino
医は女子に適せり むしろ女子特有の天職なり
明治18年(1885)年、日本初の女医第一号が誕生しました。34歳の荻野吟子です。新聞はこぞって「本邦初の女医」と報道する一方、「女は医者に適さず」とこき下ろします。しかし、医師になると決めてから15年も要した吟子には、そんな非難は取るに足らないことでした。
荻野吟子、本名ぎんは、幕末の1851(嘉永4)年に武蔵野国俵瀬村(現・埼玉県熊谷市)の庄屋に生まれました。小さな頃から、兄たちが学問する傍らに座り、誰よりも早く漢学の講義をそらんじます。
16歳で近郷の豪農に嫁ぎますが、3年で離縁。夫から感染した性病がもとで〝子どもの産めない体になった〟のが理由でした。両親はそんな娘を心配して、名医と評判だった東京の順天堂病院に入院させます。
そこでぎんは、離縁に加えてさらなる屈辱を味わうのです。男性医師の前で両脚を広げるという西洋医学の診察でした。漢方に頼っていた当時のこと、19歳のぎんは恥ずかしさのあまり気を失います…。そして、男の医者ではいやだと口を揃える女性患者たちの話を聞き、ぎんは決意します――「医者になって、同じ病に苦しむ女たちを救うのだ」
その3年後、22歳でぎんは上京。有名な国学者井上頼國に学んだ後に、開設されたばかりの東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学。「新時代の女性になるのだから名前も堂々と男と同じ漢字で」と、ぎんを吟子と改めます。そして、明治12年、首席で卒業したのです。
しかし、医学校へ進もうにもどこも女人禁制です。医学界の有力者に嘆願し、入学を許されたのが医学校の好寿院でした。そこで遭遇した男子生徒からのいじめには、髪を切り、袴に高下駄という男装で対抗。3年後に卒業すると、次は医術開業試験ですが、女子は前例がないと願書は2年続けて門前払い!
進退窮まって思い出したのが、かつて読んだ平安時代の書物『令義解』でした。「奈良時代、宮中に女性の医師がいたと記されてあり、前例があった」と直談判の末に、ようやく政府も受験を認めます。そして、難関の試験に見事合格。34歳にして勝ち取った医師の国家資格でした。
「産婦人科 荻野医院」を東京で開業した吟子は、社会の女医に対する偏見を打破しようと、反論に努めます――「医は女子に適せり、ただ適すといふのみにあらず、むしろ女子特有の天職なり」「特に婦人科と小児科に女医は必要です」
また、男性の身勝手さから性病が蔓延していることに憤慨、吟子は日本の風紀を正していこうと啓蒙運動にも励むのです。廃娼運動や衛生知識の普及活動に力を入れます。
そんな頃、吟子は13歳年下で同志社大学の学生・志方之善と恋に落ちたのです。周囲の猛反対に屈せず40歳で志方と再婚した吟子は、北海道での理想郷建設に燃える夫に従い渡道。北海道の僻村で医療を続けますが、開拓は失敗に終わり、夫は41歳で病死します。その後、東京に戻った吟子は、62歳でひっそりと亡くなるまで、地域医療に務めました。
けれども、吟子が切り拓いた道を歩む女性たちが次々と後に続きます。そして、女医27号の吉岡弥生が、現在の東京女子医科大学を創設したのは明治33年のことでした。
1851年~1913年。医師。現在の埼玉県熊谷市生まれ。16歳で結婚するが、夫から感染した性病がもとで離縁。西洋医学の治療を受け、その時の屈辱から医師になることを決意。様々な困難の末に34歳で国家資格を持った日本初の女医となる。女性参政権、廃娼運動など社会活動にも活躍するが、40歳で再婚。北海道に渡り医療を続ける。夫の死後、東京で開業する。