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時を創った美しきヒロイン

小説家、脚本家

J・K・ローリング

J. K. Rowling

人生で最悪の時期に、人生の経験を
すべてつぎ込んで書いた物語です

 1997年6月26日、イギリスで『ハリー・ポッターと賢者の石』が出版されました。児童書は売れないためハードカバーが500部だけでした。でも、作者J・K・ローリングにとっては出版まで長い道のりで、「うれしさのあまりその日は本を抱えて街を歩き回った」と幸せをかみしめます。そして、瞬く間に世界中がハリーの魔法にかかったのです。

 J・K・ローリング、本名ジョアン・ローリングは、1965年にイギリス南西部の町イェートで誕生しました。読書家の母の影響で、ジョアンも本を読むことと空想が大好き。6歳の時に初めての物語『うさぎ』を書きます。そして、2歳年下の妹ダイにお話を創っては聞かせます。

 やがて、エクセター大学でフランス語を専攻して卒業。ロンドンで職場を転々としながら、執筆に励み作家を目指すのです――「どんな仕事に就いていようと、いつでも取り憑かれたように書いていた」。

 1990年6月のある週末、マンチェスターに住む恋人と過ごしロンドンに帰る列車で、ジョアンの脳裏に突然ハリー・ポッターのアイデアが浮かんできたのです――「目の前に、ハリーや魔法学校のイメージがはっきり浮かんできたの」。

 ジョアンはハリーの創作に夢中になりますが、多発性硬化症を患っていた最愛の母親が45歳でこの世を去ったのです。母を看取れなかったこと、作家になった自分を見せることができなかったこと…。悲しみで打ちのめされる中、失業と失恋を経験したジョアンは、人生の再起を賭けポルトガルで英語教師となります。

 そして、現地で知り合った男性と結婚。一人娘ジェシカを授かりますが、すでに結婚生活は破綻。28歳のジョアンは赤ん坊を抱いて傷心のまま妹の住むスコットランドへ。当時の英国首相がシングルマザーを手厳しく非難した頃で、「人生の落伍者になった気がした」と、うつ病におちいりながらもスコットランド・エディンバラでやり直す決意を。

 プライドを捨て生活保護を申請し、教員免許の取得も目指します。そして、妹にハリーの話をすると「ダイは大笑いしてくれた」。自信を持ったジョアンは、眠ったジェシカを連れてカフェで物語を紡ぎ続けます。
「人生で最悪の時期に、人生の経験をすべてつぎ込んで書いた物語です」

――母の死、失敗、友情、夢と冒険…、心の目で見たままに描いた原稿を、1995年、著作権代理事務所(イギリスでは作家は代理人が必要)に送ります。でも、何度も返送に。何件目かのクリストファー・リトル社でも即、返却箱に。しかし、原稿を送り返す役目の事務員ブライアニーが何気なく読んでみたことから代理人契約に結びつきました。

 次に代理人の仕事は出版社探しですが、どこでも門前払いの末、中堅のブルームズベリー社に。社長が期待せずに8歳の娘アリスに読ませたところ、「パパ、これはどんな本よりもずっとおもしろい!」と絶賛。こうした奇跡が重なりハリー・ポッターは世に出ることになったのです。

 ペンネームは、出版社が女性名に難色を示したことで、祖母キャスリーンをミドルネームにJ・K・ローリングとします。ホームレス寸前から、今や世界で最も収入を得た作家となったジョアンは語ります――「人生で大切なことは、失敗する勇気であり、人を思いやる想像力です」

Profile

1965年7月31日~。小説家、脚本家。イギリス南西部で生まれる。ポルトガルで結婚、28歳でシングルマザーとなりエディンバラに。うつ病の治療をしながら原稿を書き続け、1997年に『ハリー・ポッターと賢者の石』を出版。シリーズ7作は、映画化もされ、世界的大ブームとなる。映画『ファンタスティック・ビースト』2作のシナリオも手掛ける。36歳で再婚し、一男一女を出産。「歴史上最も多く収入を得た作家」とされ、子どもの人権擁護のための慈善団体を創立している。