精神科医・著述家
神谷 美恵子
Mieko Kamiya
私の進むべき道は、苦しむ人、悲しむ人に寄り添うこと
1943(昭和18)年8月5日の夕刻、岡山県の魚港から出た小さな船に、29歳の医学生神谷美恵子の姿がありました。船が着いたのは、長島愛生園。ハンセン病の国立療養所です。平成8年に〝らい予防法〟が廃止されるまで、国がハンセン病患者を強制隔離していた施設です。
美恵子がハンセン病の医師を目指してから9年目にして、念願がかなった12日間の滞在でした。多忙で充実した日々、美恵子は詩を書きます。
(前略)なぜ私たちでなくあなたが?/あなたは代わって下さったのだ/代わって人としてあらゆるものを奪われ/地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ(後略)
この時から、さらに13年の年月を要して、美恵子は再び愛生園に戻ってくることになるのです。
神谷美恵子は1914年、内務省官僚前田多門の娘として、父の転任先である岡山市で生まれ、東京で育ちます。9歳からは3年間スイスに在住、フランス語が得意でピアノが大好きな少女になります。
やがて、津田英学塾に進学した頃、美恵子の初恋の相手が結核で他界。悲しみで心を閉ざしたまま、叔父にオルガン奏者を頼まれて、ハンセン病療養所である多摩全生園を訪問します。そこで目にした患者たちは、差別にさらされどん底の苦しみの中、生きる喜びを口にするのです。
心が揺さぶられた美恵子は、ハンセン病医療に、生きる意味を見出します――「私の進むべき道は、苦しむ人、悲しむ人に寄り添うこと」
しかし、両親は猛反対。そして、美恵子は21歳で結核に侵されてしまいます。奇跡的に完治した2年後、美恵子は奨学金を得てアメリカに留学。ギリシャ文学を学びますが、親友から本当にやりたい道を目指すべきと背中を押されます。父親も根負けし、ハンセン病に関わらない条件で医学の道を許したのです。
帰国後、東京女子医学専門学校に編入。美恵子はすでに27歳でした。そして卒業前、長島愛生園に見学だけという約束で出掛けたのです。その後、東京大学精神科医局に入局して間もなく敗戦。英語に堪能な美恵子は、国とGHQとの折衝で駆り出されます。多忙な中、32歳で同い年の植物学者神谷宣郎と結婚もします――「ああ私の人生にも漸く真の春が訪れんとしているのか」
すぐに2人の息子に恵まれ、家事と育児に追われるさ中、子供たちが次々と結核に感染。高価な薬代を捻出するため、英語とフランス語の語学教師を掛け持ちします。医学からは遠ざかる日々――「時々泣きたいほど勉強に専心したくなる」
子供の結核は治癒しますが、今度は美恵子に子宮がんが発覚――「果すべきことを果さないで逝くことに対して流した涙をもう流したくない」。41歳になっていた美恵子は、がんを治療後、夫の応援もあって今こそハンセン病医療に専心して、悔いなき人生を生きる時と決意します。
そして、43歳にしてようやく長島愛生園の精神科医となったのです。島ではハンセン病に加えて精神を病んだ人々は二重に虐げられ、荒れ果てた小屋に放置されていました。美恵子は環境改善に着手し、患者の声に耳を傾けていきます。
また、大学教授や美智子皇后の話し相手を務め、執筆にも邁進。晩年、心臓を病み、65歳でハンセン病患者に寄り添った生涯を終えました。
1914〜1979年。精神科医・著述家。岡山市生まれ。19歳でハンセン病医療を目指す。アメリカでギリシャ文学を学ぶ途中、コロンビア大学の医学部進学課程に転向。帰国後、東京女子医学専門学校を卒業。東京大学精神科医局を経て、長島愛生園の精神科医となる。いくつかの大学でも教え、哲学書の翻訳やエッセイも数多く著す。『生きがいについて』『こころの旅』などは、今もベストセラーとなっている。