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時を創った美しきヒロイン

朝鮮李王朝皇太子・李垠のお妃

李 方子

Ri Masako

出会いはたとえ政略であっても、
垠殿下のために温かい家庭を作ってお慰めしよう

 1916(大正5)年8月3日の新聞に「李王世子の御慶事――梨本宮方子女王殿下と御婚約」という記事が出ました。「いったいこれは?」と驚いたのは、神奈川県大磯の別荘で夏休みを過ごしていた15歳の方子本人でした。「自分の婚約を新聞で知るなんて…」――あまりの驚きに涙が止まりません。

 梨本宮方子は、1901年に皇族の梨本宮守正と伊都子妃(鍋島侯爵の次女)の長女として誕生しました。長じて学習院女子部に在学中に、李王世子の婚約者となったのです。

 李王世子、李垠は朝鮮王朝第26代王の第三王子として1897年に誕生しました。そして、日本の殖民統治のために人質としてわずか10歳で日本に渡ったのです。1910年に日韓併合となり、日韓融和の美名のもとに決められた政略結婚の相手が方子でした。涙をぬぐった方子は、「お国のために尽くす覚悟でございます」と静かに運命を受け入れます。

 しかし挙式直前、義父の皇帝が薨去。婚儀は1年延びますが、婚約者同士は会う機会に恵まれます。方子は、親元を離れて育った垠殿下の悲しみや温かい人柄に触れ、「出会いはたとえ政略であっても、垠殿下のために温かい家庭を作ってお慰めしよう」と決意したのです。

 1920年4月28日、東京の垠殿下の御殿に方子は嫁ぎます――「ようやく殿下のそばにたどりついたような安らぎを覚えていた」。不遇な育ちの夫も方子の優しさに笑みがこぼれます。翌年には長男の晋が誕生。この上ない幸せなひと時でした。

 1922年4月、夫妻は生後8か月の晋を連れて朝鮮訪問に旅立ち、荘厳な朝鮮式の結婚式を挙げます。「殿下が育たれたこの地に、もう少しとどまりたいと思うくらいです」――満足な旅が終わりに近づいた頃。帰国直前に晋が急逝。急性消化不良と診断されましたが、方子には受け入れがたく、半狂乱になり小さな骸にすがりつきます――「なぜ私を死なせてくれないのか」

 日本に戻っても涙が枯れることのない方子を励ましたのは、垠殿下でした。そして、待望の第二子が誕生したのは、1931年のこと。玖と名付け、今度こそ死なせはしないと方子は固く心に誓います。

 やがて戦後。王公族の身分も日本国籍も旧朝鮮国籍も喪失し、夫妻は無国籍に。韓国に帰国を願い出ても無視され、日本からは莫大な財産税を課されます。夫妻に生活力はなく、それでも方子は「これからは私が強くなって殿下には静かに暮らしていただこう。戦うのは私だ」と決心。

 数々の辛酸をなめた末に、ようやく韓国側が迎え入れたのです。「1963年のソウルの初冬。長い、波乱の旅路の果ての、終わりの日」に念願の韓国の土を踏みました。しかし、垠殿下は数年前から脳血栓で寝たきりで、帰国6年目で他界します。

 「私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った国、もう一つは骨を埋める国です」――方子は日本に戻ることなく、福祉事業が夢だった夫の遺志を継ぎ、韓国で障害児教育に邁進します。趣味を活かした七宝焼きや書などを売り、資金を捻出します。その熱意に寄付も多額に。目障りな日本人と敵視されていた方子が「韓国のオモニ(母)」と慕われるまでになるのです。両国の歴史と政治に翻弄された方子が、愛する夫の元へ旅立ったのは87歳の時でした。

Profile

1901~1989年。朝鮮李王朝皇太子・李垠のお妃。韓国語読みでイ・バンジャ。皇族の梨本宮守正と伊都子の長女として誕生。18歳で李王家に嫁ぐ。朝鮮訪問の際に9ヵ月の長男を亡くす。日本敗戦後、過酷な境遇を生き延び、1963年に病床の李垠を連れて韓国に帰国。障害児教育に残りの人生を捧げた。悲運のお妃として知られ、葬儀は準国葬として執り行われている。李家の住まいは、現在では「赤坂プリンス クラシックハウス」となっている。