小説家姉妹
ブロンテ姉妹
Brontë sisters
目には見えないが激しく鼓動するもの、
血が駆け抜けていくもの
孤児ジェインが苦労の末に家庭教師となり、やがて真の愛を見つける波乱の物語『ジェイン・エア』。荒野を舞台に繰り広げられる孤児ヒースクリフの愛と復讐の物語『嵐が丘』。どちらも19世紀ヴィクトリア朝時代の作家シャーロットとエミリーのブロンテ姉妹による不朽の名作です。その作品が生まれたのは、イングランド北部、灌木のヒースの荒野が広がる小さな村ハワースでした。
ハワース村の牧師であった父親のもと、1816年生まれのシャーロット、1818年生まれのエミリー、1820年生まれのアンの姉妹は牧師館で育ちます。母親はアンを産んで翌年に亡くなっており、厳格な伯母が母親代わりとなります。
1826年6月、所用で街へ出かけた父が木の兵隊人形をお土産にいくつか買ってきます。姉妹はそれぞれ名前を付けた人形を登場人物として物語を紡ぎ始めます。シャーロットはそれを小さな文字で記し豆本に仕立てます。外界から閉ざされたような牧師館で、想像力に満ちた姉妹は、空想の翼を広げながら文学の道を夢見るようになるのです――「私たちはごく小さい頃に、いつしか作家になろうという夢を抱きました」
そして、シャーロットは早くから結婚を考えることなく自立を目指し、教師となります。同時に、文学の道も諦めませんでした。20歳の頃、高名な詩人に自作の詩を送り助言を乞います。しかし、「文学は女性の仕事ではない」という返事でした。
やがて、エミリーも教師となり、シャーロットとアンは住み込みの家庭教師となりますが、2人とも女中同然の待遇に身をすり減らすだけ…。その上、父は眼病を患うのです。
こうして、3姉妹は生活のために学校を開くことを計画。研修のためシャーロットとエミリーはベルギーの寄宿女学校に留学します。そこで、シャーロットは校長の夫でもある教授に激しい恋心を抱いたのです――「ささやかな関心を先生が私に示してくださりさえすれば、私はそれにすがりつきます」。もちろん叶う恋ではなく傷心のまま帰国しますが、その狂おしい思いがやがて名作を生み出すこととなるのです。
しかし、学校経営は生徒が集まらず失敗。その窮地が姉妹の文学への情熱をかき立てます。まず、3姉妹の詩集を刊行しますがわずか2部しか売れません。いよいよ切羽詰まった姉妹は小説を競作。そうして1847年、シャーロットは自身の恋や男女平等への思いを込めた『ジェイン・エア』、夢想家のエミリーは大好きなヒースの荒野を舞台にした『嵐が丘』、アンは家庭教師の体験をもとにした『アグネス・グレイ』を書き上げて出版。中でも『ジェイン・エア』は評判が良く、たちまちベストセラーとなったのです。
しかし喜びもつかの間、エミリー、アンが続けて亡くなります――「私は孤独な女であり、今後も孤独でありそうです」。悲しみの中で、シャーロットは続けて作品を発表し、有名作家となり財産を築きます。そして1854年、父の反対にあいながらもつましい暮らしの副牧師と結婚。翌年、重い妊娠中毒症のため38歳で命を落としてしまいます。
「目には見えないが激しく鼓動するもの、血が駆け抜けていくもの」を書きたい一心で、苦難続きの中で自己表現を成し遂げた姉妹の作品は、今なお人々を魅了し続けています。
シャーロット(1816〜1855)、エミリー(1818〜1848)、アン(1820〜1849)。小説家姉妹。イギリスのヨークシャー生まれ。父親は牧師で、ハワース村の牧師館で育つ。幼い頃から空想好きで、姉妹で物語を創り豆本に書き記す。教師や住み込みの家庭教師として働き、1847年、シャーロットは『ジェイン・エア』、エミリーは『嵐が丘』、アンは『アグネス・グレイ』を当初は男性名で出版。『ジェイン・エア』がベストセラーとなる。『嵐が丘』は奇怪と不評だったが後に高評価を得た。姉妹が暮らした牧師館は、ブロンテ博物館として当時のままで公開されている。 (※文中の引用した言葉はすべてシャーロットのもの)