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時を創った美しきヒロイン

神聖ローマ帝国皇妃

マリア・テレジア

Maria Teresia

私は最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、
必ず正義を守る国母でありたい

 1717年5月13日、オーストリアのハプスブルク王家に王女が誕生しました。嫡男が熱望されていたさ中、父親である神聖ローマ帝国皇帝カール6世を始め、誰もががっかりします。しかも、マリア・テレジアと名付けられたこの長女に続いて生まれたのは、2人とも妹でした。

 それでも、両親の深い愛情に包まれテレジアはすくすくと成長。6歳の時、ロートリンゲン公国(フランス・ロレーヌ地方の小国)のフランツ・シュテファン公子がハプスブルク家に招かれます。テレジアより9歳年上の美少年フランツは気立てが良く、初恋の人となったのです。

 やがて、相思相愛となった2人は1736年2月に結婚。カール6世は男の孫を望みますが、3人続けて女の子が誕生。皇帝は、苦渋の決断でテレジアを後継者としたのです。

 そのカール6世が1740年10月に急逝。テレジアは、わずか23歳でハプスブルク家の君主となりました。――「私は最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい」

 当時のハプスブルク家の領土は、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア、西ポーランド、北イタリア、ベルギー等々、巨大なものでした。しかし、女の継承は認めないと、たちまち周辺諸国が狙います。中でもプロイセン(ドイツ北部の小国)のフリードリヒ2世は産業の豊かなシュレージエン地方(ポーランドとチェコの一部)を武力で占領。

 この地を手放すまいと、待望の嫡男ヨーゼフを出産したテレジアはハンガリーで、乳飲み子のヨーゼフを胸に「この子を抱いた私を助けられるのはあなたたちです」と、涙ながらに窮地を訴えます。若く美しい女王の嘆願に応え、ハンガリー軍はテレジアの味方につき、7年間に及ぶ継承戦争を闘い抜きました。

 シュレージエンを取り戻すことは叶わなかったものの、ほとんどの領土を守り抜き、夫フランツは神聖ローマ皇帝として戴冠しました。そして、テレジアは政治的手腕を発揮。数々の改革で近代国家に導きます。

「貧しい者や身分の低い者が、富裕な者や官憲によって抑圧されることのないように」と、司法制度の確立を始め、外交では、長年の宿敵であったフランスと同盟関係を結びます。

 さらに、軍隊を新設。上官による兵士への暴力を禁止します。まさに国母としてきめ細やかな行政でした。

 1756年に再びプロイセンが侵攻。7年戦争が勃発します。平和を愛するテレジアは不本意ながら応戦し、結果的に和平を結びました。

 驚くべきことに、テレジアは2つの戦争を闘いながら16人もの子供を出産――「子供は何人いても多すぎることはありません」。そして、その子供たちの婚姻政策により勢力を拡大――「血で血を洗う戦争よりは、不幸な結婚のほうがましだわ」。末娘はやがて、フランス王妃マリー・アントワネットとなりました。

 しかし1765年8月、フランツが急死したのです。「夫であり友人であって、私の愛情のただ一つの対象」を喪い茫然自失のテレジアは髪を切り、生涯喪服に身を包みます。

 それでも晩年は、「国家を支えるのは子供たち」という信念で、帝国全土に民族性を重んじた小学校を新設しました。夫を愛し、子供を愛し、他民族国家をまとめ上げ、国難に立ち向かった偉大な国母の生涯でした。

Profile

1717~1780年。オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王、神聖ローマ帝国皇妃。ハプスブルク家の長女としてウィーンで誕生。父カール6世の薨去でハプスブルク家の家督を継ぎ、巨大なオーストリア帝国の君主となる。フランツ・シュテファンと王族には珍しい恋愛結婚をして16人の子供をもうける。天性の政治的手腕で、オーストリアを近代的国家にまとめ上げるが、領地はしばしば周辺国に狙われ、プロイセンとは合計14年間も闘う。末娘はマリー・アントワネット。