明智光秀の三女で細川忠興の正室
細川ガラシャ
Gratia Hosokawa
散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ
戦国時代の1582(天正10)年6月2日、本能寺の変が起こりました。明智光秀が突然「敵は本能寺にあり」と、主君・織田信長を討ったのです。光秀はただちに娘の嫁ぎ先である細川家に同盟を求めます。しかし、細川家は「光秀は主君の敵」として協力を拒否。本能寺の変から11日後、光秀はあえなく秀吉軍に敗北、明智家は滅びてしまうのです。その家族の中で、ただ一人生き残ったのが、光秀の娘・玉子でした。
1563年、玉子は越前の国で光秀の三女として生まれました。才覚に長けた光秀譲りの利発な姫君でした。そして、16歳で同い年の細川忠興と結婚。美貌の玉子は忠興から大事にされ、一男一女に恵まれます。
ところが結婚4年目で、本能寺の変が! 運命は暗転、玉子は謀反人の娘となってしまいます。しかし忠興は愛妻を見放すことができず、玉子を丹後の山奥に隠したのです。自害も考える玉子…。しかし、お腹にいた三人目の子を支えに、「父上、母上、姉上、どうか私をお許しください」と亡き家族の冥福を祈りながらつらい毎日を耐え続けます。
忠興は信長亡き後、豊臣秀吉に仕え、玉子は幽閉から2年後、天下人となった秀吉の許しが出て丹後から帰ることができました。玉子が落ち着いた先は、大坂城近くの細川家の屋敷。けれども玉子は再び軟禁状態に。嫉妬心の強い忠興が、玉子を他の男性の目に触れさせたくなかったためと言われています。
忠興の側室の存在にも心乱れ、次第にふさぎ込んでいく玉子。そんな時に耳にしたのがキリスト教でした。女性は男性に従属を強いられていた時代。神の前では何人も平等と説く教えに玉子の胸は高鳴ります。
1587年2月21日、玉子は忠興の留守を狙い、身分を隠して大坂天満にあった教会を訪れました。玉子は宣教師に教えを請い、多くの事を学びます。後日、玉子は侍女を通して洗礼を受け、洗礼名は「ガラシャ」。神の恩寵という意味でした。救いを得た玉子は健康を取り戻していきます。後に宣教師は、「これほど理解力を持つ聡明な日本女性は見たことがない」と報告書に記しています。
しかし1587年6月、秀吉はバテレン追放令を出し、外国人宣教師を国外追放。それでもガラシャは信念を曲げず、「どのような迫害を受けようとも、私の信仰は変わりません」と書いた手紙を宣教師に送っています。忠興はそんな一途な妻を黙認するしかありませんでした。
やがて1598年、秀吉が世を去ると、2年後、忠興は家康に従い上杉討伐に向かいます。残していくガラシャに、「いざとなったら自害して家の名誉を守れ」と命じて。その留守を狙ったのが石田三成でした。三成は徳川方の妻女たちを人質にして覇権を握ろうとしたのです。
1600年7月17日、三成はガラシャを捕らえようとします。ガラシャは誇り高く人質を拒みますが、キリスト教では自害は罪。そのため、家臣に自分の胸を突かせ、屋敷に火を放ったのです。「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(花も人も散る時を知ってこそ美しい)――戦国の世に散ったガラシャ38歳の辞世の句です。
その2か月後、関ケ原の戦いで忠興は先陣となって三成に勝利。そして、忠興は亡き妻の追悼をキリスト教式で行い男泣きに泣いたのでした。
1563(永禄6)〜1600(慶長5)。明智光秀の三女として誕生、本名は玉子。16歳で細川忠興と結婚。本能寺の変で、丹後の国に幽閉されるが、2年後秀吉に許される。1587年にキリスト教に入信、洗礼名ガラシャとなる。1600年7月、石田三成に屋敷を囲まれ、家臣の介錯で死去。この悲劇は西洋で賛美され、1698年ウィーンで歌劇『勇敢な婦人』となって上演された。