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時を創った美しきヒロイン

児童文学作家

P.L.トラヴァース

Pamela Lyndon Travers

『メアリー・ポピンズ』が
私の人生です

 1964年、ディズニー映画『メリー・ポピンズ』が公開されました。実写とアニメーションを融合した映像、主演のジュリー・アンドリュースの愉快な歌で大ヒットし、アカデミー賞の主演女優賞、作曲賞など5部門を受賞したのです。しかし、原作者で脚本監修のP・L・トラヴァースにとって不満の残る作品でした。

 P・L(パメラ・リンドン)・トラヴァースは本名ヘレン・リンドン・ゴフとして1899年にオーストラリアのクイーンズランド州で3人姉妹の長女として誕生。アイルランドに傾倒する父トラヴァースが語ってくれるアイルランドの妖精物語の神秘性に魅せられます。日没には「何かもっといいことがあるはず」「どこかへ行かなければ」と空想に浸り、夜空の星座を眺めてはギリシャ神話に思いを馳せます。

 しかし、パメラが8歳の時に最愛の父親が病死。不安がる妹たちに魔法使いのお話を創作しては聞かせます。そして、夢見たのは、詩人になることと、舞台女優でした。やがて21歳の時に、父の名前を取ってパメラ・トラヴァースと改名。念願の女優となり初舞台を踏みます。

 さらに、詩人としても認められ、24歳で新聞のコラムを担当するようになります。これをきっかけに、文筆業で生きていくことを決意。25歳でオーストラリアの田舎から大都会ロンドンに旅立ったのです。父親の影響でアイルランドに憧れていたパメラは、アイルランドの詩人AE(ジョージ・ラッセル)に師事します。詩作を続け、短編のファンタジーも少しずつ発表。しかし、様々な病魔がパメラを襲い苦しめます。

 療養生活を経てようやく回復した頃、詩人では一流になれないと悟ったパメラは、AEに相談。するとAEは、短編に登場するメアリー・ポピンズにはパメラ自身が息づいている、これをもっと前面に出したらとアドバイスしたのです。

 パメラの心には多くの物語が刻まれていました――「10代の頃、メアリー・ポピンズの短いお話を書いて、妹に読み聞かせ、新聞に掲載されたことがある」。こうして書き始めたシリーズ第1作『風にのってきたメアリー・ポピンズ』が世に出たのは1934年、パメラが35歳の時でした。 「私は一瞬たりとも、自分がメアリー・ポピンズを創作したなどとは思っていません。おそらくメアリー・ポピンズの方が私を創作したのです」

 風変わりなナニー(養育係)メアリー・ポピンズと子供たちが繰り広げる不思議な冒険話は大人気に。

 1959年にはディズニーの映画化依頼を承諾。しかし、「妖精物語は子供にとっても大人にとっても、つらい時の楽しさの甘い一滴」という思いで創作してきたパメラにとって、完成した映画には大切な神秘性が感じられないと失望したのです。

 それでも、映画のヒットでパメラの知名度は高まり、自伝を期待されます。でも、きっぱりと「『メアリー・ポピンズ』が私の人生です」。

 その人生は、両親や恩師、愛する人の死、病気…数々の不幸に満ちていました――「悲しみの杯はいつもいっぱい」。その中で、生涯メアリー・ポピンズシリーズ10作を紡ぎ続けたのでした。「だれだって、じぶんだけのおとぎの国があるんですよ!」という作中のメアリー・ポピンズの言葉は、パメラ自身に向けられた励ましだったのかもしれません。

Profile

1899~1996年。児童文学作家。オーストラリア生まれ。本名ヘレン・リンドン・ゴフを改名。生涯、筆名P.L.トラヴァースを名乗る。女優を経て詩人となり、25歳でイギリスに移住。35歳で『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を発表。以後、シリーズが大好評を得る。挿絵は熊のプーさんシリーズのE・H・シェパードの娘メアリー・シェパードが手がけた。1964年にディズニー映画化され大ヒット。2013年の映画『ウォルト・ディズニーの約束』はその映画化の交渉過程が描かれた。