軍人
ジャンヌ・ダルク
Jeanne d’Arc
たとえ炎に包まれても、私は死ぬまで主張を変えません。
1337年からおよそ100年間、英仏百年戦争が繰り広げられました。フランスの王位継承権をイギリス王家が主張して、フランスに侵入。さらに、フランス国内では、イギリス側についたブルゴーニュ派と、フランス王家こそ正統と唱える側で内乱状態となっていました。フランスの滅亡の危機が迫る中、一人の少女が祖国のために立ち上がったのです。
少女の名前は、ジャンヌ・ダルク。1412年にドンレミ村の農民の娘として生まれました。敵の進軍に脅える日々、気立てがよく働き者のジャンヌは、13歳のある日、不思議な声を聴きます――「シャルル王太子のもとに行きなさい。そして、フランスを救うために戦いなさい」。
「私はただの小娘です。戦闘なんてできません」。3年間、心に秘めて悩んだ末、ついに決心。心優しいジャンヌは、戦禍で傷つく人々をこれ以上見ていられなかったのです。
「私はどんな事でも、父と母に従ってきました。しかし、初めて背きました。戦うために旅立ったのです」――ジャンヌは、危険な旅に備え、髪を切り落とし、男の服をまといます。中世、人々の服装は身分や性別で厳密な定めがありました。その掟を破れば異端とされた時代でした。
故郷を出発して2か月、ようやくシャルル王太子との謁見が叶います。
「私は、王太子様を王位につかせるためにやってまいりました」――26歳の若き王太子は、あきらめつつあった戦況を打開するために、半信半疑ながらジャンヌの願いを聞き入れます。こうして17歳の戦闘司令官ジャンヌが誕生しました。
ジャンヌは、まず、イギリス軍に包囲されたフランス中部の町、オルレアンに向かいます。胸に矢を受け傷つきながらも、果敢に先頭に立つジャンヌに兵士たちは鼓舞されます。1429年5月8日、ついにオルレアンは解放されました。
7月17日、ジャンヌがイギリスから奪い返したランスの大聖堂(現在、世界遺産)で、シャルル王太子がシャルル7世として王位に就きます。伝統の戴冠式に臨んだジャンヌは、晴れがましさでいっぱいでした。
そうして、さらに進軍を続け、パリ奪還を目指すジャンヌ。その陰で、身の保身を図り、密かにブルゴーニュ派にすり寄るシャルル7世…。
1430年5月、ジャンヌは敵の手に落ちます。そして、イギリス主導の裁判が開始。何か月にも及ぶ過酷な尋問に、ジャンヌは屈服しません――「私が求めたのは、真の平和です」「たとえ炎に包まれても、私は死ぬまで主張を変えません」
業を煮やしたイギリスは、男装の異端の罪を悔い改めれば、死刑は免除してやると結審。罠でした。その直後に、ジャンヌの牢にイギリス兵を押し入らせたのです。身を守るために男の服を着てしまったジャンヌ…。再び異端の罪を犯したとして、すぐさま火刑に処したのです。
1431年5月30日、ジャンヌの19歳の命は炎の中に消えました。その22年後、イギリスが撤退。さらに3年後、ジャンヌは死後の復権裁判で無罪となり、名誉を回復します。
火刑までの裁判記録と復権裁判の記録はすべて後世に残され、ひたむきに平和を願った勇気ある少女の姿が浮かび上がってきました。そのけな気さに人々は感動。様々な芸術作品のヒロインとなっているのです。
1412~1431年。フランス東北部ドンレミ村生まれ。英仏百年戦争(1337~1453)で、祖国を救うために戦った。オルレアンを解放し、シャルル王太子を王位に就かせるなど活躍したが、敵に捕えられ、1431年5月30日19歳で火刑に。1456年復権裁判で名誉を回復する。オルレアンでは、解放記念日の5月8日に毎年盛大なジャンヌ・ダルク祭が開催されている。