俳優
樹木 希林
Kiki Kirin
出てきただけで、その役の過去も現在も、
不安も悔いも、
いま考えていることも――
見ている人にわからせたい
2018年5月、カンヌ国際映画祭で是枝裕和監督の『万引き家族』が、最高賞パルムドールを獲得しました。「気味の悪いばあさん」を意識したという俳優・樹木希林が、カンヌに登場。「是枝作品の中に居るのは、これでおしまい」として、その年の9月に他界したのでした。
樹木希林は、1943年に東京神田で中谷啓子として、元刑事で薩摩琵琶の奏者となる父と、カフェーや大衆酒場を営む働き者の母のもとに生まれました。「いつもぶすっとして暗い性格で、あの子の声は聞いたことがない」と言われた子供でした。
やがて、薬学部進学を目指していた高3の冬、スキーで足を骨折し受験を断念。たまたま新聞で文学座付属演劇研究所の募集記事を見て応募し、見事に合格してしまうのです。そして、「なんの期待も下心もなく、理想もへったくれもなかった」研究生を経て、父がつけた芸名・悠木千帆として俳優デビューします。
21歳で森繫久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』に出演。東北弁のお手伝いさん役で、お茶の間の人気を集めます。さらに、森繁の軽妙洒脱な演技を間近に見た千帆は「芝居って面白い」と気づき、「私の役者人生がちゃんと始まった」のです。
その頃、文学座同期の岸田森と結婚しますが、4年後には離婚。そして、舞台や映画で演技に磨きをかけ、1970年代に大ブレイクします。
TBSのホームドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『ムー一族』などに出演し、演出家でプロデューサーの久世光彦と切磋琢磨しながら高視聴率ドラマを連発。アドリブでコントも考えます。老けメイクでおばあさん役の千帆が、沢田研二のポスターに向かって「ジュリー!」と身もだえし、郷ひろみとのデュエット曲が大ヒットし、脇役で不動の人気者に――「私、役を選ばないのよ。なんでも演っちゃうの」
1973年にはロックンローラーの内田裕也と再婚――「この人とならケンカのしがいも苦労のしがいもある」。3年後には長女の也哉子を授かりますが、別居婚を続けます。また、オークション番組で悠木千帆の芸名を売り、樹木希林に改名。コマーシャルでも大受けし、常に話題に事欠かない個性派俳優となるのです。
しかし、『ムー一族』の打ち上げで、出演者と久世の不倫を暴露し大騒動に。明け透けな性分の希林は、臨月間近な相手の彼女と元気をなくしている久世を心配し、皆で応援していこうという発言でしたが、久世はTBS退社を余儀なくされます。
そんなお騒がせな希林でしたが、演技には真摯に向き合い、「出てきただけで、その役の過去も現在も、不安も悔いも、いま考えていることも――見ている人にわからせたい」という信念を貫きます。そのため、役柄に合わせた衣装を自ら用意し、役にぴったりの人を街で見かけると、電車やバスを乗り継ぎ自宅まで跡をつけて観察するほどでした。
やがて、年齢が役柄に追いつく頃には、演技派として輝きを放つのです。しかし、61歳で乳がんを患い、70歳で「全身がん」と公表。「がんは向き合えるからいい病気」と淡々とがんを受け入れ、病を押して『わが母の記』『あん』『モリのいる場所』などの映画で名演を披露。「今日までの人生、上出来でございました」――思うままに芸に生き、穏やかに人生の幕引きをしたのでした。
1943~2018年。俳優。東京神田生まれ。本名・内田啓子。1961年、文学座付属演劇研究所1期生となり、悠木千帆の名でデビュー。1977年に樹木希林に改名。テレビドラマ『寺内貫太郎一家』『ムー一族』などで人気に。1973年には内田裕也と再婚。映画『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』『わが母の記』『あん』『万引き家族』などで、数々の映画賞を受賞。着物やアンティーク家具のインテリアにも美意識を発揮した。