バレリーナ、振付家
谷 桃子
Tani Momoko
他のことは考えないで、バレエのためだけに
懸命に生きようと覚悟を決めた
戦後の昭和20年代、食べ物に事欠きながらも美しいものに飢えていた時代、一世を風靡したバレリーナ、谷桃子がいました。焼け跡にいち早く美しい花を咲かせた人でした。
谷桃子、本名上田桃子は1921(大正10)年に兵庫県姫路市で生まれました。父親は外資系の商社マン、母親は師範学校出の教師で、子どもの情操教育のためにクラシック音楽を流すハイカラな家庭でした。
2歳の時、母親に抱かれて、世界一のバレリーナ、アンナ・パブロワの公演を神戸で観ます。『瀕死の白鳥』を観ながら、桃子は白鳥が本当に死んでしまうと思い、「あっ、あっ」と声を上げます。家に帰ると、さっそく布切れを頭にのせてつま先立ちで踊る真似をするようになるのです。
「身体を動かすことは好きだったけど、しゃべるのは苦手で弱虫」な桃子は、父親の転勤で7歳で東京へ。そして「関西弁が恥ずかしかった」ため、ますます無口な少女に。心配した母親は、8歳の桃子を「石井漠舞踊詩研究所」に入門させたのです。
そこでは主にモダンダンスを学び、自由な表現力を磨いていきます――「名曲をたくさん聴いてその感じたままをどう表現するか、その毎日の努力が後のバレエ習得にどれほど役に立ったかしれません」
女学校卒業後、「踊りを続けたい」と日劇ダンシングチームに入団しますが、戦時下で劇場が閉鎖。日本全国と中国への慰問公演に励みます。
戦後、芸名「谷桃子」としてようやく日劇の舞台を踏みますが、次第に「どうしてもクラシックバレエを勉強したい気持ちが強くなりました」。そして、上海で活躍していたバレエダンサー、小牧正英に師事。バレエデビューを果たします。
間もなく、小牧と恋愛関係となり結婚しますが、小牧が他のダンサーに心を移しすぐに破局。悲嘆に暮れる桃子をマスコミは「悲劇の舞姫」と書き立てます。その辛い時期に、「他のことは考えないで、バレエのためだけに懸命に生きようと覚悟を決めた」桃子は、1949年に「谷桃子バレエ団」を設立。『白鳥の湖』第二幕上演で人気を集めます。
その頃、バレリーナの悲恋物語、イギリス映画『赤い靴』が大ヒット。主演のバレリーナ、モイラ・シアラーが桃子に赤いトゥシューズを贈り、傷心の桃子を励ますというイベントがありました。このニュースで桃子はバレエ界のスターとなり、ブロマイドまで発売される騒ぎに。
1954年、人気絶頂の桃子はパリへ留学。しかし、本場のバレエと比べて日本の水準の低さに打ちのめされてしまいます。ホテルの窓辺で「ここから飛び降りたくなる」とまで思い詰めるように。けれども、教師から「谷の東洋的な優雅さが好い」と評価されたことで、「基礎はあくまでもアカデミックに、表現は自ら違ってよい」と気を取り直します。
そして、帰国した桃子は挫けずに「仲間と一緒に伸びていこう」と決意。1955年に『白鳥の湖』全幕公演を果たします。2年後には『ジゼル』を初演。恋に破れ精霊となるジゼルを叙情性豊かに舞い、観客はもちろん共演者もスタッフも涙を流します。
『白鳥の湖』と『ジゼル』が当たり役となった桃子は、喜劇『リゼット』や『ドン・キホーテ』を日本初上演。数多くの演目に挑みます。振付家としても活躍し、日本のバレエ界の発展に生涯を捧げたのでした。
1921~2015年。バレリーナ、振付家。兵庫県生まれで7歳で東京へ。8歳からモダンダンスを習い、女学校卒業後、日劇ダンシングチームに入団。1946年、クラシックバレエに転向。1948年、『コッペリア』の主役に。翌年に谷桃子バレエ団を設立。バレエ界の大スターとなり、日本にバレエブームを巻き起こす。『白鳥の湖』と『ジゼル』が代表作となるが、他にもレパートリー多数。53歳で引退後、振付家として後進の育成にあたった。