作家、歌人
紫式部
Murasakisikibu
たくさんの人たちの人生や
心の内を書きたい
世界最古の大河小説として名高い『源氏物語』の作者紫式部は、ユネスコが選んだ世界の偉人に初めて登場した日本人です。『源氏物語』を読んだことはなくても、紫式部は誰もが知っている名前ですが、生まれた年も名前も不明なのです。
紫式部は970年頃に誕生したと推定されており、父親は藤原為時で身分は高くありませんが学者として名高く、代々歌詠みの家系でした。式部が幼い頃に母親は他界、母代わりの姉と弟がいました。父の官位が式部丞だったこと、『源氏物語』のヒロイン紫の上から、紫式部と呼ばれるようになったとされています。
その式部は、父が弟に漢籍を手ほどきする傍らですらすらと覚えてしまう天才少女でした。「お前が男の子だったらよかったのに」と父は嘆きます。そして、膨大な書物を読みこなし豊かな教養を培っていくのです。しかし、内気な文学少女の式部に、姉の死という悲しみが襲います。
それでも、親しい友達との再会に心弾ませることもありました――
「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半(よは)の月かな」
幼馴染がその父の赴任地から帰り、夜の更けるまでおしゃべりを楽しんだ乙女らしい青春の一こまです。
やがて29歳の頃、かねてより言い寄られていた藤原宣孝の求婚を受け入れます。宣孝は20歳ほど年上で、何人かの妻も子もある人物。しかも社交的で派手好き、式部とは正反対の性格でした。当時は一夫多妻で夫が妻のもとに通うのが通例。式部も宣孝の来訪を心待ちにし、一人娘を授かります。しかし、結婚3年目で宣孝があっけなく急死。
やっと手に入れたささやかな幸せが手のひらからこぼれていきます。不安と寂しさの中で、心を癒してくれたのが物語でした。「行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などつけて、うち語らふ人、同じ心なるはあはれに書き交はし……」――同じような境遇の友達と物語を読み合い批評しあう日々。
「でも、物足りない物語も多い。だから女子供の慰み物とばかにされる」と、『竹取物語』などの世に出回る物語に不満を抱いた式部は自ら筆を執ります。「たくさんの人たちの人生や心の内を書きたい」という思いに駆られ、想像力を巡らせて『源氏物語』を書き始めていくのです。
そして、書き上げた分から友達に感想を聞くうちに、都に評判が広まっていきます。その噂を聞いた時の権力者藤原道長が、中宮(妃)にした娘彰子の女房に抜擢。先の中宮定子の女房に『枕草子』で名高い清少納言がいて評判でした。道長は彰子にも才能豊かな式部を仕えさせて娘を盛り立てたいと願ったのです。
式部は、『源氏物語』を書き続けるという条件で宮廷に上がります。そして、華やかな宮廷生活、権力抗争、愛と別れなどを目の当たりにし、物語に弾みがつきます。何よりも式部の心の支えとなったのが彰子でした。可憐で人柄が良く「よろづ忘るるにも且つはあやしき」と、彰子を見ているだけで浮世の憂さを忘れられると賛美するのです。
こうして、心の命じるままにおよそ70年間に渡る壮大な愛の物語を書き上げた式部は、光源氏にこう言わせています――「物語類こそ、虚構ではあっても人間心理の機微をえぐって、事象の本質に迫っている」
970~1014年頃。作家、歌人。中流以下の貴族藤原為時の娘として京で生まれる。幼い頃から、漢籍、日本書紀、仏教書、歌集など幅広く読みこなす。27歳の頃、越前守となった父とともに越前(福井県)に移り住む。29歳頃、藤原宣孝と結婚、一人娘賢子を産む。夫の急逝後、『源氏物語』を書き始め評判となったことで、一条天皇の中宮彰子に仕える。この間に、世界最古の長編小説『源氏物語』や『紫式部日記』を書き上げ、9年後に宮仕えを辞した後に亡くなったとされるが、生年月日、没年月日ともに不明。