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時を創った美しきヒロイン

公妾

ポンパドゥール侯爵夫人

Madame de Pompadour

自分の持てる力を使って生きていく

 ポンパドゥールの名で有名な前髪にボリュームを持たせ後ろへ流すヘアスタイルがあります。元祖は18世紀、フランス宮廷のポンパドゥール侯爵夫人。ロココ時代に「ア・ラ・ポンパドゥール(ポンパドゥール風)」という様々な流行を発信し、ロココの女王と謳われた女性でした。

 ポンパドゥール侯爵夫人は、幼名ジャンヌ・アントワネット・ポワソンとして、1721年にパリで誕生しました。父親は裕福な商人でしたが身分は平民でした。幼少期から利発な美少女だったジャンヌは、8歳の頃、占い師から「将来、国王に愛される」と告げられます。

 その占いを信じた両親は、ジャンヌに貴族の子女以上の教育を受けさせます。貴婦人はほとんど本など読まなかった時代、あらゆる学問と幅広い教養を身に付けたのでした。

 やがて16歳で社交界デビュー。有名サロンにも出入りし、才色兼備ぶりが評判を呼びます。「自分の持てる力を使って生きていく」――高みを目指すジャンヌの処世術でした。結婚は19歳の時。夫はパリの屋敷と郊外に城を持つ領地貴族でしたが、望みはさらなる高みでした。

 そしてついに1745年、皇太子の結婚祝賀舞踏会に招待されたのです。すかさず皇太子の父、国王ルイ15世に近づくジャンヌ。たちまち美貌とウィットに富んだ会話で、ルイ15世の心を射抜いたのです。

 見事に王の公式寵姫(公妾)の座を手に入れたジャンヌは、ベルサイユ宮殿に私室と、ポンパドゥール侯爵夫人という称号を与えられます。当時の王室の結婚は外交政策で、外国からお妃を迎えるのが慣例。そんな愛と無縁のお妃の他に、フランスでは愛妾が公的な地位として認められていました。そして、宗教上離婚ができない人妻は、王との結婚を望めず公妾に好都合だったのです。

 「彼女の博覧強記と機智と情報通には舌を巻く」と側近を感嘆させたポンパドゥールは、その知力と輝くばかりの魅力でベルサイユ宮殿を席巻。特に彼女の髪型やピンクの頬紅、可愛いドレスなどが貴婦人の憧れの的となります。城館も幾つか建て、家具調度も繊細優美に整え、ポンパドゥール様式を流行させたのです。

 「私の時代が来た!」――ファッションだけでなく芸術・文化の守護神となり支援します。フランスで初めての『百科全書』の出版にも協力。また、陶磁器の工場を造り、華麗なセーブル焼きを誕生させました。

 さらに私財を投じ、後にナポレオンも学ぶ陸軍士官学校を創立。「もし学校ができて、貧しい貴族の子弟にも軍の幹部への途がひらけるなら、私の十万リーヴル(約五億円)くらいなんでしょう」――自分のお城まで手放す熱の入れようでした。

 そして、外交革命にも手腕を発揮。長年の宿敵であったオーストリアと同盟を結びます。また、共通の敵プロイセンと闘うために、オーストリア女帝マリア・テレジア、ロシア女帝エリザヴェータと連帯。「三枚のペチコート作戦」と呼ばれます。

 「私には目下一分間も自分の時間が無いの」――多忙を極める彼女は、元来病弱のため、三十代から愛妾の役目を退き、王の相談役となります。「これからは愛情ではなく、友情で陛下にお仕えします」――王の大切な人となったポンパドゥールでしたが、42歳で早世。棺を見送る国王の目から大粒の涙が流れたのでした。

Profile

1721~1764年。フランス、ルイ15世の公妾。パリ生まれ。あらゆる高等教育を受け、19歳で結婚。一人娘も生まれるが、前の公妾を亡くしたばかりのルイ15世の目に留まり公妾に。芸術・文化を庇護し、外交政策にも活躍。夫人の髪型、ドレス、バッグ、化粧から、お菓子、家具まであらゆるものが「ア・ラ・ポンパドゥール」として大流行。オーストリアと同盟を結んだことで、彼女の死の6年後、マリー・アントワネットがルイ16世に嫁ぐこととなった。