歌人
柳原白蓮
Byakuren Yanagiwara
わが命惜しまるるほどの幸せを初めて知らむ相許すとき
1921(大正10)年10月22日、『朝日新聞』が、「白蓮女史情人の許に走る」と大々的に報じました。白蓮は九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門の36歳の妻燁子のこと。大正天皇の従妹であり歌人・白蓮として高名な文壇のスターでした。同日の夕刊には燁子から夫への絶縁状が掲載されます――「私は私の個性の自由と尊貴を守り且つ培ふ為に貴方の許を離れます」。姦通罪があった時代、社会を揺るがす大事件となりました。
燁子は柳原前光伯爵と士族出身の芸者の間に、1885(明治18)年に生まれました。前光の妹は、大正天皇の生母という名門華族です。やがて、15歳で華族女学校を中退、縁戚の北小路子爵の長男と結婚させられます――「殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記」。そして、長男を置いて20歳で離婚します。
しかし、出戻りは柳原家の恥と、幽閉の身に。それでも燁子は中断された勉学を切に望み、23歳で東洋英和女学校へ進学。歌人・佐佐木信綱に師事して短歌も本格的に学びます。
その卒業後の燁子に待っていたのは、25歳年上の伊藤伝右衛門との再婚でした。伝右衛門は裸一貫で巨万の富を築いた人物。身分違いでしたが、女学校を創設していると聞かされた燁子は、「女学校で教育に携わりたい」と夢を抱きます。
明治44年、25歳で燁子が九州の飯塚に嫁いでみると、複雑な家族構成や夫の女性関係に加えて、女学校はすでに市に寄付された後。失望する燁子に、夫は「銅御殿」と呼ばれる贅を尽くした屋敷を飯塚と別府に造り、飾り物のように扱います。
夢が砕けた燁子…。その虚しさを歌にぶつけます。号を白蓮として、『踏絵』『几帳のかけ』『幻の華』などの歌集を発表。「誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥」「底知れぬ心のなやみ呪ふべく歌を綴れり吾といふ歌」――圧迫された心を詠んだ歌は評判となり、美貌と豪奢な暮らしぶりから、「筑紫の女王」と呼ばれたのです。
大正9年、白蓮作の脚本『指鬘外道』の出版交渉で、東京帝国大学の7歳年下の学生・宮崎龍介が訪ねてきます。階級制打倒に燃える龍介は、熱く理想を語ります。そんな彼に白蓮は懊悩の日々を打ち明けます。やがて2人は、700通もの情熱的な恋文を交わし合うようになります――「わが命惜しまるるほどの幸せを初めて知らむ相許すとき」「地獄に落ちても悔いはない」――そうして、龍介の子を身ごもった白蓮は出奔を決意。36歳で自らの意思で生きる道を選びました。愛を求めた白蓮を世間は袋叩きにしますが、虐げられていた女性たちには自由のシンボルと映りました。
白蓮は再び実家に監禁され、息子の香織を出産。親子3人が再会できたのは2年後、大正12年の関東大震災の混乱の中でした。しかし、龍介は結核で寝込み、白蓮は執筆活動で一家を支えることに。長女蕗苳も生まれます。やがて病気快復後、弁護士として活躍する龍介と共に、弱者救済にも打ち込みます。苦労が多くても、「金屏風の陰で泣くより幸せ」と悔いはありませんでした。
白蓮を襲った最大の悲劇は、学徒出陣した香織の終戦4日前の戦死でした。この慟哭は戦後、白蓮を平和運動に駆り立てます。深い愛で結ばれた龍介に看取られて白蓮が波乱の生涯を終えたのは81歳の時でした。
1885~1967年。歌人。柳原前光伯爵の次女・燁子として東京で誕生。15歳で最初の結婚を経て、26歳で九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門に嫁ぐ。号を白蓮として歌集『踏絵』を大正4年に発表。“筑紫の女王”と呼ばれる。大正10年に7歳年下の宮崎龍介と出奔。華族の身分を剥奪され平民となり、歌集、小説、随筆、童話などの執筆活動で病身の龍介を支える。戦後は反戦運動で活躍した。白蓮が暮らした飯塚の旧伊藤伝右衛門邸は現在一般公開されている。