評論家・平和活動家
石垣 綾子
Ayako Ishigaki
戦争に反対することは私の生きる姿勢の根本
1951(昭和26)年6月15日、横浜港に、アメリカで反戦活動をしていた石垣綾子が降り立ちました。48歳の綾子にとって25年ぶりの故国でした。「人生は終わりのない旅路のようなもの」――不安ながらも綾子の新たな挑戦の始まりでした。
1903(明治36)年、旧姓田中綾子は厳格な物理学教授の父親のもと、東京で生まれました。15歳の頃、綾子を可愛がっていた叔母が6人目の子どもを出産。お祝いに訪れた綾子に叔母は「嫁はつらいけれど、じっと我慢していれば幸せが来る」と語ります。英語に堪能でハイカラな叔母の口から出た言葉に、綾子はショックを受けます――「女は我慢しなきゃいけないなんて。私は自分の人生を自分で拓きたい」
やがて、社会への関心を深めた綾子は、国際婦人デーの会合でビラ配りをし、平塚らいてうを訪ねるなど、生き方を模索します。そして、“結婚資格をなくすために”長い髪をばっさりと切り、手縫いの洋服姿に変身したのです。断髪では嫁の貰い手のない時代、因習への反逆でした。
1926年23歳の夏、外交官である姉の夫がワシントン勤務に。一家の頭痛の種だった綾子は、子守がわりに同行させられますが、着いてすぐに家族の大反対を押し切って、先進的なニューヨークへ。「自由の国への脱出」でした。メイドをしながら大学の聴講生となります。
そんな時に知り合ったのが、在米画家の石垣栄太郎です。恋に落ちた2人は、3年後に結婚。綾子26歳、栄太郎36歳でした。しかし、世界大恐慌が始まり、栄太郎の絵はまったく売れず、ウェイトレス、ランプシェード工場、ワッフル焼き…、様々な労働で日銭を稼ぎます。不況下にあっても、自由の息吹に触れ、豊かな人間関係を育み、貧乏生活を乗り切ります。
1931(昭和6)年、満州事変が勃発。このニュースに綾子はどうしようもなく心がざわつきます。「黙っていては祖国の侵略行為を認めることになる」「戦争に反対することは私の生きる姿勢の根本」――綾子の反戦活動の始まりでした。
無名の女である綾子は、震える足で聴衆の前に立ち、反軍国主義を訴えていきます。執筆にも力を入れます。ノーベル賞作家のパール・バックが、綾子の著書を褒めて励ましてくれるという幸運もありました。しかし、日米開戦後に綾子は敵国人とされ迫害されるように。それでも、ひたすら平和を願って活動します。
1945年、戦争が終結。翌年の国際婦人会議に日本代表として出席。ようやく「アメリカの行く手が明るく開かれていくように見えた」のも束の間、強硬な共産主義排斥、赤狩りが始まったのです。リベラルな思想を持つ石垣夫妻も執拗に調査され、国外追放となりました。
そして、逮捕を免れた綾子と栄太郎は無事に日本に帰国。そこで、荒廃した祖国を見た綾子は「これからは女の時代だ」と直感。新聞社に売り込み、評論家として再出発します。1955年には、夫に頼り切る専業主婦に苦言を呈し、女も自立すべきという『主婦という第二職業論』で物議をかもしました。
「伝統的に決められた、縛られた生き方に反逆することでパワーが生まれる」――実体験に裏付けられた率直な言葉で、新しい女性の生き方を提起し励まし続けた綾子が、波乱の生涯を閉じたのは93歳の時でした。
1903〜1996年。評論家・平和活動家。東京生まれ。1926年外交官夫人の姉夫婦に同行して渡米。単身ニューヨークへ。画家の石垣栄太郎と結婚する。大恐慌時代には様々な労働について食いつなぐ。第二次世界大戦下、反戦活動に没頭。日米双方から敵視される。終戦後、赤狩りで国外退去に。帰国後、アメリカ情勢や女性問題、平和活動などの評論や講演で活躍。著書多数。夫の栄太郎は帰国後7年目で病没している。