脚本家・エッセイスト・小説家
向田 邦子
Mukoda Kuniko
私は何がしたいのか。私は何に向いているのか。
……もっと面白いことはないか
1980(昭和55)年7月、第83回直木賞に向田邦子が選ばれました。『小説新潮』に連載中『思い出トランプ』の中の3編で、単行本になっていない受賞は異例のこと。脚本家、エッセイストとして大活躍の邦子が新たに小説家としてデビューしたのです――「五十を過ぎて、新しい分野のスタートラインに立てるとは、何と心弾むことでしょうか。用意の姿勢をとり終わらぬうちに、突然ドン!とピストルが鳴ったようで、選手はいささかあわてておりますが」
向田邦子は、昭和4年に現在の東京都世田谷区で、生命保険会社に勤める父親のもと、4人兄弟の長女として誕生しました。父親は転勤族で一家は、宇都宮、目黒、鹿児島、高松、仙台と転々とします。邦子は転校を繰り返しながら、運動が得意で成績優秀な優等生に成長。読書好きで、夢は「本屋のお嫁さんになる」ことでした。
やがて、実践女子専門学校(現・実践女子大学)を卒業、社長秘書を経て、雄鶏社の編集部員募集に応募。洋画雑誌『映画ストーリー』に採用されます。戦時中、防空壕に洋画誌を持ち込むほど、ハリウッド映画が憧れだった邦子には天職でした。
「映画は私達の夢、周囲は暗くともこれある限り、心がなごみます」と、やりがいのある仕事で、趣味のスキーにも夢中でしたが、会社が経営危機となり給料の遅配が。そこで、「スキーに行くお金が欲しくて」副業で週刊誌のライターを引き受けるのです。多忙を極める中、ラジオやテレビの台本書きを勧められ、執筆業に転身することを決意。31歳で退社します。好奇心旺盛な邦子が選んだ新しい道でした――「私は何がしたいのか。私は何に向いているのか。……もっと面白いことはないか」
そして、森繫久彌に才能を認められ知名度を上げていきます。しかし、『寺内貫太郎一家』『だいこんの花』『時間ですよ』などの大ヒットドラマを連発するさ中に、乳癌を発病。「病気を話題にされ、いたわられたりした場合、気負わずに感傷に溺れずにいる自信がなかった」邦子は、家族にも知らせず手術を受けます。経過は良好でしたが、輸血で血清肝炎となり余命半年の宣告が。さらに、右手が不自由となったのです。
幸い死の危機は免れますが、邦子に意識の変化が起きます。いくら名作ドラマを書いても、「そのときの花火みたいな命」と放送後に消えていく脚本ではなく、「活字で後々まで残るものを書く」と決意。そして、左手で字を書く訓練を兼ね遺書のつもりで書き始めたのが、亡き父を巡るエッセイ『父の詫び状』でした。
頑固で癇癪持ちの暴君、でも不器用な愛情いっぱいの父を生き生きと描き、大評判に。ドラマもコミカルなものから、『阿修羅のごとく』『あ・うん』など、人間の暗部をえぐる愛憎劇に変化していったのです。
細部まで行き届いた観察眼で、日常の何気ない出来事を描写し、リアルな人物像を描き上げる邦子の才能は、小説にも活かされました。そうして、見事直木賞を受賞したのです。
受章の翌年8月22日、台湾で取材旅行中の邦子が乗った飛行機が墜落。51歳で帰らぬ人となりました。後日、家族が邦子の部屋で遺書を見つけます。「どこで命を終るのも運です。体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いにくることはありません」――潔く生きた人でした。
1929~1981年。脚本家・エッセイスト・小説家。東京生まれ。実践女子専門学校卒業後、洋画雑誌『映画ストーリー』の編集者に。アルバイトで雑誌記者を掛け持ちする中、シナリオライターへ。『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』など、TVドラマの脚本を多く手がける。’80年に『思い出トランプ』収録の『花の名前』他2作で直木賞受賞。『父の詫び状』『男どき女どき』など著書多数。’81年8月22日、飛行機事故で死去。