洋画家
三岸 節子
Migishi Setsuko
ああ、これで私が生きていかれる
愛知県一宮市に日本を代表する洋画家三岸節子の作品が並ぶ一宮市三岸節子記念美術館があります。自らの生涯を「女流画家の血みどろの路」と称した節子の陰りなどまったく感じさせない、豊穣な色彩に満ちた生命観溢れる作品群が印象的です。
三岸節子は1905(明治38)年に現在の一宮市で、愛知県有数の大地主で織物工場を経営する吉田家に生まれました。先天性股関節脱臼のため足が不自由で、客が集う日には「家の恥」と蔵に隠された節子は幼い頃から反逆精神を育みます。やがて、女学校時代に工場が倒産。妹はショックで病死しますが、節子は逆に「一家の苦しみを何者かになってとり返そうと決意した」のです。
節子が目指したのは油絵画家でした。親の猛反対に「画家になれないなら死ぬ」とまで反発して我を通します――「油絵の世界こそ新しい時代の人間解放であり、新鮮な自由の世界が開かれると信じ込んだ」
上京後、女子美術学校に編入学。そして、同人展に参加し新進気鋭の画家三岸好太郎と出逢います。好太郎は一目で節子に夢中に。お嬢様育ちの節子は、北海道出身で苦学生の好太郎の貧しさに画家の理想像を感じたのです――「当時の私は貧しさに対する正義感から、純粋で清潔な尊敬の念さえ三岸にもっていた」
そして、好太郎の子を身ごもった19歳の節子は21歳の好太郎と結婚。3人の子が生まれ子育てと、同居する病弱な義母と義妹の看病と家事に追われる日々。想像もつかないどん底の貧困生活でした。さらに、女性に見境がなく家に帰らない好太郎。でも、何よりもつらいのは、絵を描く時間がないことでした。
結婚10年目、絵が売れた好太郎は日頃の罪滅ぼしに節子を関西旅行に誘います。帰途、好太郎は愛人に逢うためか名古屋で途中下車。その2週間後、「コウタロウシス」の電報が。胃潰瘍の大量吐血による急死でした。節子は思わず「ああ、これで私が生きていかれる。画家として生きていかれる」とつぶやきます。
しかし、さらなる試練が。好太郎が分不相応な自宅とアトリエを新築中だったため、その莫大な借金が残されたのです。食べ盛りの子供を抱え、節子はなりふり構わず働きます。挿絵、座談会、随筆…「困難にもたぢろがぬ、貧乏にも百戦錬磨」。
アトリエを完成させ、がむしゃらに生きる節子のもう一つの闘いが画壇でした。当時、画壇は男性優位の世界。女流画家の存在など認められていなかったため、戦前、戦後と女流画家の協会を立ち上げます――「この不平等に向かって満身の情熱をそそいで立ち向かった」
それでも心が折れそうな時、すがったのが恋愛でした。年下の画家と身を焦がすような恋に落ちたのです。一緒になったものの、互いを傷つけあい5年で破局を迎えます。
そして、静物画や花の絵で世界的な評価を得た節子は、風景画もものにしていきます。やがて、69歳でフランス・ブルゴーニュの田舎町に定住。独りで画架に向き合う日々でした――「絵描きは魂において孤独でなければ、いい絵は描けない」
「ひたすらに絵を描くは、しびれるような満足を得たいがためである」――84歳で帰国後も精力的に絵筆を持ち続けます。どんな逆境にも描く喜びを生きる力に変え、戦い抜いた炎のような94年の生涯でした。
1905~1999年。洋画家。愛知県起町(現一宮市)の大地主吉田家に生まれる。洋画家・岡田三郎助に師事し、東京女子美術学校に学ぶ。19歳で三岸好太郎と結婚。その10年後、好太郎が名古屋で客死。3人の子を抱え画家として生きることを決意。戦後、すぐに個展を開催、女流画家の協会を立ち上げ、1968年から1989年までフランスの田舎にアトリエを構える。1994年に女性洋画家初の文化功労者となる。好太郎の作品を買い戻し、札幌の三岸好太郎美術館の設立にも尽力した。