モデル、パフォーマー、俳優、ウェアリスト
山口 小夜子
Yamaguchi Sayoko
日本人には日本人にあうヘアメイクをするのが
一番美しいと思っていた
1970年代、黒髪のおかっぱ頭と切れ長の目で一世を風靡したモデル、山口小夜子がいました。神秘のベールを纏ったまま今も〝伝説のモデル〟として語り継がれています。
山口小夜子は1949年に横浜市で一人っ子として誕生しました。生家は外人墓地に近く、幼い頃からおしゃれが大好き。服はすべて洋裁の得意な母親の手作りで、外国雑誌を見て気に入ったスタイルを縫ってくれていました―「小さい時は、母の着せ替え人形みたいでした」
そんな小夜子の服が周りと違うことでいじめに。「その変な服、脱いだら仲間に入れてあげる」と同級生から言われますが、「じゃあ一緒に遊ばなくていい」。一人遊びの好きな内気な少女でした。
やがて、服飾に興味を持ち杉野学園ドレスメーカー女学院に進学。そこで、長身だったことから、教師の仮縫いのモデルを頼まれるうちに、プロのモデルを勧められます。でも「つくる側に進みたかった」小夜子は、ある日、渋谷のデパートで「それまで見たこともない斬新すぎる服」を見たのです。「こんな面白い服を着て仕事ができるのだったら、モデルになってもいいな」と決意。
しかし、ハーフモデル全盛の時代、黒髪の小夜子はオーディションに行く度に「髪を染めて、外人っぽいメイクをしてきなさい」と、門前払い。「髪を染めるくらいならモデルにならない」と、オーディションに落ち続け自信を無くした頃。これが最後と臨んだオーディションで「そのままの黒髪がいい」と採用してくれたのは、なんと渋谷で感動した憧れの服のデザイナー、山本寛斎でした。
こうして1971年、山本寛斎のロンドン・コレクション凱旋ショーでデビュー。好評となりパリのオートクチュール・デザイナーのコレクション(通称パリコレ)に誘われます。たった独りで初めての外国、緊張のあまりパリの街角で気絶してしまい、心細くて毎晩涙が。でも、コンプレックスだった「黒髪、切れ長の目、小さな鼻」がショーで“東洋の神秘”と鮮烈な印象を与え、『ヴォーグ』の誌面にも登場―「日本人には日本人にあうヘアメイクをするのが一番美しいと思っていた」
にわかに注目を浴びた小夜子がショックを受けたのが、周囲の手のひら返し。この経験で迷いが吹っ切れます―「他人にどう見られるかは関係ない。自分の好きなこと、信じることをすればいい」。ショーでは、「どう着てほしいの?」と服に聞き、その服と一体化してしなやかに動く独特の魅せ方も評価され、パリコレの常連に。
そして、化粧品メーカーの専属モデルとなり、1974年には『ニューズウィーク』誌で世界のトップモデル4人に選ばれます。1977年にはロンドンのマネキン会社から「SAYOKOマネキン」が発売。世界中のショーウィンドウを飾りました。
さらに、俳優、ダンスパフォーマー、DJ、ファッションデザイナーなど様々な表現で活躍の場を広げていきます。そして、自らを「ウェアリスト(着る人)」と名乗るように―「人間は心が体を着ているという言い方もできると思いますし、もっと言えばそれを取り巻くすべてのものを着ている。空気も光も」
しかし、2007年8月14日、急性肺炎で急逝したのです。まだ57歳、次の主演映画を準備中のことでした。
1949~2007年。神奈川県横浜市生まれ。モデル、パフォーマー、俳優、ウェアリスト。1971年にモデルデビューし、翌年にパリコレに登場。イヴ・サンローラン、ティエリー・ミュグレー、ジャン=ポール・ゴ ルチエから山本寛斎、三宅一生、高田賢三などのミューズとなり、日本人初のスーパーモデルとなる。寺山修司の舞台や映画、山海塾、勅使川原三郎などの舞踏の舞台にも出演。舞台衣装やアクセサリーなどのデザイナーとしても活躍。