日本画家
上村 松園
Syouen Uemura
絵を描くためにだけ生き続けてきたようにも思える
終戦後の1948(昭和23)年11月、日本画家上村松園が女性で初めて文化勲章を受章しました。しかし、松園は優美な美人画を描いて日本一とされた画家であり、「あまりにも遅すぎる顕彰」と言われたのです。
「今に見ろ、思い知らしてやると涙と一緒に歯を食いしばらされたことが幾度あったか知れません」――保守的な日本画壇の中で、女性として松園が挑戦したその道のりには、幾たびもの涙がありました。
上村松園、本名津禰は明治8年、京都四条の繁華街で葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれました。父親は津禰の誕生を待たずに病死し、気丈な母仲子は女手一つで娘二人を育てます。津禰は幼い頃から、帳場に座って絵ばかり描いている少女で、その姿は界隈で評判となります。
小学校を卒業すると、京都府立画学校へ入学。女は家にという時代、親戚は進学に猛反対しますが、仲子は「つうさんの好きな道やもん」と娘の希望を叶えてやったのです。
しかし、紅一点の画学校で男子生徒からは様々な嫌がらせを受け、さらに、授業は花鳥風月の絵ばかり。人物画を描きたい一心の津禰は、必死に独自で勉強をします。自分でポーズをとって鏡を見ながらスケッチをします。旧家秘蔵の屏風が一般公開される祇園祭では、朝からいそいそと模写に駆け回ります。
そして、最初の師である鈴木松年から「松園」という雅号をもらい、15歳で、内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品。その絵が一等褒状を受賞し、来日中の英国皇子お買い上げとなります。「京に天才少女あり」――華々しい画壇デビューでした。
展覧会に出品するごとに受賞し、海外まで松園の名声が高まるにつれ、男性画家からの誹謗中傷が増し、絵に落書きされる事件も起きます。そして、松園は27歳で長男信太郎(後の画家松篁)を出産。未婚を恥じず、誰にも父の名を明かしませんでした。仲子はそんな娘を「お前は家のことをせいでもよい。一生懸命に絵をかきなされや」と支えたのです。
やがて、大正時代になると西洋絵画に注目が集まり、日本画にも社会性が問われる風潮となり、松園の絵はただ美しいだけと批判されるように。深刻なスランプに陥った松園が、懊悩しながらテーマを見つけたのは、謡曲を習い始めて関心を持っていた「能」でした――「泣く、笑ふ、歓喜する、憂ひ、歎ずる、すべてのことが、典雅なうちに……ある」
そうして大正7年、能の『葵上』を題材として凄まじい女の嫉妬心を描いた『焔』を発表――「なぜ、このような凄艶な絵を描いたかわからない」。この作品で世間を圧倒した松園は、見事に復活したのです。
昭和9年に仲子が亡くなると、『母子』という作品で最愛の母への追慕を結実――「私を生んだ母は、私の芸術まで生んでくれたのである」
その2年後には、近代日本画の傑作とされる『序の舞』を完成します。毅然と能楽を舞う女性像は、松園の強い自負の表れでした――「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである」
「女のくせに」という因習に立ち向かい、ひたむきに画道にまい進した生涯でした――「気性だけで生き抜いてきたとも思い、絵を描くためにだけ生き続けてきたようにも思える」
1875~1949年。日本画家。京都市生まれ。本名津禰。京都府画学校中退。鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳に師事。明治23年第3回内国勧業博覧会での一等褒状で画家・松園が誕生する。以後、女性として近代美人画の世界を切り拓き、1948年女性初の文化勲章受章。代表作に『焔』『母子』『序の舞』(重要文化財)など。長男の松篁(文化勲章受賞)、孫の淳之も日本画家。