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時を創った美しきヒロイン

歌人

和泉式部

Izumi Shikibu

あらざらむこの世のほかの思ひ出に
いま一度の逢ふこともがな

 「冥きより冥き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月」(暗い道に迷ってしまった私の行く手を月よ、お導きください)。月は名僧の例えで、仏教にすがる苦しい心境を表した歌です。作者は平安中期の歌人和泉式部。華やかな恋愛遍歴で知られる彼女にも苦悩の時がありました。

 和泉式部は978年頃に生まれたとされており、父親は越前守を務める中流貴族でした。和泉式部は少女の頃から様々な書物を読み、歌の勉強に励みます。10代にはすでに歌集も作るほどでした。

 そして、18歳頃に和泉守・橘道貞と結婚。小式部内侍という女の子を授かります。和泉式部の呼び名は、夫の役職から付けられたものです。

 そんな幸せな日々、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王に言い寄られたのです。為尊親王は名高いプレイボーイ。噂はたちまち広まり、和泉式部は道貞から絶縁され、身分違いの恋に激怒した親からは勘当されてしまいます。でも、和泉式部は初恋の人、道貞に愛着ひとしおでした。

 「黒髪の乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき」(髪の乱れも気にかけず突っ伏すと、かつて髪をかき撫でてくれた人が恋しい)。道貞への未練の歌と伝わります。

 しかし、為尊親王が交際1年ほどで急死してしまいます。その死から1年後、為尊親王の弟、敦道親王から文が届いたのです。最初は「私はもう一度、為尊親王の懐かしい声が聞きたい」と拒絶していた和泉式部でした。しかし、敦道親王が突然来訪。「なべての御さまにはあらず、なまめかし」(普通のお姿ではなく、美しく気品にあふれた方)。和泉式部より3歳年下の敦道親王の魅力に抗えず結ばれてしまうのです。

 「世の常のことともさらに思ほえずはじめてものを思ふ朝は」(世間並みの恋とは思えません。初めての恋の切なさに苦しんでいる今朝の私)。逢瀬の翌朝、初々しく新たな恋に震える和泉式部なのでした。

 それから、2人の間で恋の駆け引きの歌が綿々と交わされます。お互い、じらして、甘えて、疑い…。ついに敦道親王は、宮邸に和泉式部を住まわせます。恋の噂の絶えない彼女を独り占めしたい一心でした。正妻はこれに激怒。家を出てしまいます。そして熱愛の日々、岩蔵の宮も生まれます。しかし4年後、敦道親王も帰らぬ人となったのです。

 深い悲しみに沈む和泉式部。世間の中傷もあり、真実を知ってほしいと筆を取ります。こうして、2人のきらめくような愛の日々を綴った『和泉式部日記』を書き上げました。

 そして、一条天皇の中宮彰子の教育係として出仕。娘の小式部内侍を連れてのことでした。同僚には紫式部がいました。紫式部は「彼女の手紙や歌は素晴らしいが、素行は感心しない」と和泉式部を評しています。

 やがて、丹後守・藤原保昌と再婚。しかし、小式部内侍が出産で命を落とすさらなる不幸が。涙にくれる和泉式部は、挽歌を詠み娘の死を悼みます。そして、その後の行方は明らかではありません。人生の悲哀も、愛の歓びも、すべて自由に奔放に歌に詠み、歌に生きた生涯でした。

 「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいま一度の逢ふこともがな」(私はまもなく死ぬが、この世の思い出にもう一度あなたに抱かれたい)――百人一首に入る代表作ですが、願った相手は誰だったのでしょう…。

Profile

978年頃~没年不詳。歌人。越前守・大江雅致の娘。10代から歌人として名を成す。18歳頃に和泉守・橘道貞と結婚、小式部内侍をもうける。冷泉天皇の第三皇子・為尊親王、その弟の敦道親王から求愛され、敦道親王との出会いから宮邸に入るまでを『和泉式部日記』に描く。生涯1,500首以上の歌を詠み、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人。京都市新京極の誠心院は和泉式部が初代住職と言い伝えがあり、墓と伝わる石塔もある。