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時を創った美しきヒロイン

時を創った美しきヒロイン

児童文学者

松谷 みよ子

Miyoko Matsutani

童話は、たった一つ生きている証でした

 『いないいないばあ』という絵本に思い出をお持ちの方が多いのでは? この作品、発行部数500万部以上という日本一愛されている絵本なのです。作者は松谷みよ子、「赤ちゃんにも愛読書を」という思いから1967年に乳児用として生まれました。

 松谷みよ子は、1926(大正15)年に東京神田で4人兄妹の末っ子として誕生しました。父親は社会派の弁護士で、国会議員になった人物。お手伝いさんが上の姉を「お嬢様」、妹のみよ子を「お嬢ちゃん」と呼んだことから、「じょうちゃん」とみんなから呼ばれて育ちます。

 子供たちにおおらかな母親は、娘に「女は一生台所に立たにゃならん。だからいま本を読みなさい」と、児童文学全集を買い与えます。それらの本にみよ子は夢中になります―「幼い私に自然の美しさ、日本語の美しさ、わらべ唄にこめられた人生まで教え、心を育ててくれた」

 しかし、みよ子が11歳の時、父親が交通事故で急死。きらめきに満ちた少女時代が終わります。まもなく日本は戦争に突入。食糧買い出しに行った農村で、米軍機から機銃掃射されます。食べ物もなくいつ死ぬか分からない日々、文学少女だったみよ子は創作に生きる希望を託すのです――「小さな童話を、小さなメモに記していること」「童話は、たった一つ生きている証でした」

 そして、空襲で家も焼け、一家で長野に疎開。そこで終戦を迎えたみよ子は、友人の紹介で尊敬する児童文学者・坪田譲治と知己を得ることができたのです。敗戦から2年後、22歳になったみよ子はようやく単身で上京。焼け跡で懸命に働きながら坪田譲治に師事し、1951年25歳で『貝になった子供』を初めて世に出すことが叶いました。

 そして、職場の女性達と人形劇サークルを結成。指導に来た人形劇劇団の瀬川拓男と出会います。彼と夢を語り合ううちに、2人は婚約。しかし、以前に罹ったみよ子の結核が再発し、生死の境をさまようみよ子を瀬川は辛抱強く看病します。

 快復後、結婚式を挙げたのは、みよ子が29歳の時でした。そして、瀬川に誘われるまま民話の採訪の旅に出ます。村人が語る様々な民話に耳を傾け、「その面白さ、豊かさに心を奪われました」と感動。民話採訪がライフワークとなるのです。

 やがて、民話の世界から創作した『龍の子太郎』を発表。1962年には国際アンデルセン賞優良賞に輝きました――「それまで自分のために書いてきた。……このとき初めて日本の子どもに、いや世界の子どものために書きたいって思いました」

 2人の娘にも恵まれ、執筆にも多忙な毎日。瀬川の仲間達との集団生活やそのやりくりに疲弊し、夫が愛人と住む家まで面倒を見る中、体の弱いみよ子は、「死神」の訪れを感じたのです。恐怖で身が竦みながらも子供を守るため、「私には捨てなくてはならないものがある」と旅立ちを決意。結婚12年目で母娘3人での新しい生活に踏み出しました。

 長女にせがまれて書いた『モモちゃん』シリーズ、次女からは「なぜパパがいないの」とせがまれて離婚を描いた『モモちゃんとアカネちゃん』シリーズは、共にロングセラーとなりました。幾多の苦難にも創り出すことを支えに、89歳で亡くなるまで、日本中の子ども達に素敵なお話を贈り届けた生涯でした。

Profile

1926~2015年。児童文学者。東京生まれ。戦後、坪田譲治に師事し、51年に『貝になった子供』でデビュー。『龍の子太郎』『ちいさいモモちゃん』などで様々な賞に輝く。民話集や社会問題に取り組んだシリーズ、『自伝 じょうちゃん』、エッセイなど著書多数。55年に瀬川拓男と結婚。後に離婚するが、民話全集など共に仕事をし、最期を看取っている。