皇女
皇女アナスタシア
Anastasia Nikolaevna Romanova
さようなら。私達のことを忘れないでください
1901年6月18日、世界最大の国土を占めるロシアのロマノフ王朝にお姫様が誕生しました。すでに3人の皇女が生まれており、世継ぎの男子誕生が期待されていた中、両親は深く失望。それでも、アナスタシアと名付けられたこの皇女は、一家のアイドルとなっていくのです。
アナスタシアの父親・皇帝ニコライ2世は、一家団欒を大切にする子煩悩な父親。母親のアレクサンドラ皇后は、華やかな社交生活を嫌い、離宮で家族と簡素に暮らすことを好みます。アナスタシア誕生の3年後には、ようやく皇太子アレクセイが誕生。仲睦まじい両親のもと、子どもたちはのびやかに育ちます。
中でもアナスタシアはいたずら大好き、元気いっぱいの女の子。あまりのお転婆ぶりに、“小悪魔ちゃん”と呼ばれる愛すべき存在となっていきます。家庭教師は、「どんなに気難しい人でも、彼女の前では笑顔になった」と回想しています。
そんなアナスタシアの趣味はカメラ。家族の写真をたくさん撮ります。「鏡を見ながら自分を撮りました。手がぶるぶる震えて大変でした」――少女の自撮り第1号とされている写真も撮っています。そして、絵を描くことも大好きで、花の絵を描いた可愛いアルバム作りに熱中します。
皇女たちはどの国へ嫁いでもいいように、英語、フランス語、ドイツ語を学びます。アナスタシアはすぐ習得しますが、他の勉強は少々苦手。休暇先で、「あんまり幸せなので、勉強なんていう恐ろしいことはやりません」と解放感を味わいます。
しかし、幸せな皇帝一家に暗い影を落としたのが、皇太子アレクセイの病気でした。難病の血友病に罹っていることが判明したのです。悲しみに暮れる皇后。アナスタシアは母親をそっと気遣います――「大好きな優しいママ、あたし、いつもほがらかにしているわ。ママが泣いていたなんて誰にも気づかせないわ」。
1914年に第一次世界大戦が始まると、皇后と上の姉2人は看護師として奉仕。アナスタシアとすぐ上の姉は、負傷兵を見舞い、読み書きを手伝います。「私達は新しい病院で、長い時間を過ごしています」――アナスタシアが振りまく笑顔は負傷兵を癒し、人気者となりました。
しかし激動の20世紀初頭。国内外で大きな変革のうねりが起きていました。ロシアでは1917年3月、民衆が立ち上がって革命が勃発。300年続いたロマノフ王朝は終焉を迎え、一家はシベリア移送となります。「さようなら。私達のことを忘れないでください」と、アナスタシアは友人へ手紙を宛てました。監禁状態の中でも、アナスタシアは自作の芝居で皆を笑わせます――「私達が経験した素晴らしい時間!」
1918年7月17日未明、革命軍の一部が暴走、一家全員を銃殺します。アナスタシアはまだ17歳になったばかりでした。社会主義政権は、皇帝の処刑は認めますが、家族まで虐殺したことは隠ぺいしました。この歴史の闇の中で、アナスタシアは生きていると信じられ、自称アナスタシアが世界中に出現したのです。愛らしいアナスタシアへの惜別の思いが生んだ伝説だったのでしょう。
遺されたアルバムの中で、アナスタシアは永遠に笑顔のままです。彼女の幼友達の述懐です――「いつも楽しげできらきら輝いている明るい青い瞳が、とても魅力的だった」
1901~1918年。ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世の4女として誕生。激動の20世紀初頭、恵まれた環境の中で天真爛漫に育つ。1917年ロシア革命により宮廷を追われ、1918年17歳で虐殺される。その死は謎とされ、アナスタシアブームを巻き起こした。政治体制の改革を経てようやく遺骨を発掘。最終的に2009年に科学的鑑定で一家全員の遺骨が確認された。アナスタシアの撮った写真の数々は貴重な資料となっている。