女優、シャンソン歌手
ジュリエット・グレコ
Juliette Gréco
自由。平和。その願いを胸に歌ってきた。私は愛する詩しか口にしない。
2011年3月11日の東日本大震災後、外国人アーティストが次々と来日公演を取りやめました。そんな中、フランスを代表するシャンソン歌手ジュリエット・グレコが予定通りに来日。84歳(当時)とは思えない熱いステージで、日本人に力強いエールを送ってくれました。
グレコは、1927年2月7日、南フランスで生まれました。生後間もなく両親が離婚。グレコと姉は、母方の祖父母によって育てられます。グレコは、黙り込んだらてこでも動かない、頑固な女の子でした。
そして、祖父母が亡くなると、パリに住む母は姉妹を引き取ります。しかし、田舎でバカンス中に、ナチスがパリを陥落。母親は、すぐにレジスタンス運動に参加しますが、ドイツ軍に連行されてしまいます。
姉妹は頼るべき人を求めてパリへ向かいますが、二人とも逮捕されてしまうのです。16歳のグレコは酷い拷問を受けた末に、独りだけ釈放へ。この過酷な体験によって、「個人の自由の剥奪は許さない」という信念がグレコの生涯を貫くこととなったのです――「我々が望むように生きる自由、考える自由、笑う自由、与える自由、交換する自由、そして我々の愛するものを遠慮なく愛し、愛する人々を愛する自由」
一文無しのグレコが頼ったのは、中学時代の女教師でした。グレコは子供の頃、バレエを習っていたことから、舞台に魅かれ演劇の勉強を始めます。そして、迎えた終戦。母と姉も強制収容所から生還します。
パリ解放の歓びの中、若者たちが群れたのは、サンジェルマン・デ・プレ界隈。カフェや地下クラブに文化人が集います。サルトル、ボーヴォワール、ボリス・ヴィアン、カミュ…。その中で、長い黒髪を無造作にたらし、黒ズボンの生意気で美しいグレコが注目を集めます。サンジェルマン・デ・プレのミューズと呼ばれるようになり、アメリカの雑誌『ライフ』でも紹介。すぐに、彼女の真似をする女性が続出したのです。
1949年、グレコは、ジャン・コクトー監督の『オルフェ』で映画デビュー。そのグレコに周りは歌を勧めます。尻込みするグレコに詩を贈ったのがサルトルでした。そして、その年に歌手として初舞台を踏みます――「自分ひとりだけを聴きたいという人のために歌う、という幸福を味わっていた」
サルトルは、「グレコはその喉に、いまだ書かれざる千の詩を持つ」と称賛。やがて、いつもズボン姿ばかりのグレコが嫌々選んだ衣裳が黒のドレス。その豪華な裾飾りを切り捨てます。そして、宝石もつけず、身振りと表情豊かに、詩の世界を情感込めて歌い上げます。この黒ずくめの独創的なスタイルで、グレコは世界的なスターとなっていくのです。
納得しない歌は歌わず、時には傲慢と物議を醸すことも――「自由。平和。その願いを胸に歌ってきた。私は愛する詩しか口にしない。好きな人にしかキスしないように」
1981年、独裁政権下のチリで、堂々と軍政批判の歌を歌い、即刻国外追放に。「生涯最大の勝利」――そのニュースにパリの人々は、体制に屈しないグレコに拍手しました。
88歳まで現役歌手として活躍してきたグレコも、2015年春に引退を表明。パリの美しきミューズは永遠の神話として生き続けるのです。
1927年~。女優、シャンソン歌手。南フランス生まれ。第二次世界大戦中、演劇を学ぶ。戦後、多くの知識人のアイドルとなり、サンジェルマン・デ・プレのミューズとなる。1949年、映画『オルフェ』で映画デビュー。サルトルらの勧めで同年に歌手としてもデビュー。黒ずくめの衣裳がトレードマークに。恋多き女としても知られ、結婚は3回、現在の夫はピアニスト。