俳優、歌手
ジュディ・ガーランド
Judy Garland
観客の喝采――素敵な素敵な響き――
その中で私は2歳の時から生きてきたのよ
1939年、ハリウッドのミュージカル映画『オズの魔法使』が公開されました。主役の少女ドロシーを演じたのは、17歳のジュディ・ガーランド。映画は、主題歌「虹の彼方に」と共に大ヒットし、ジュディはスターの仲間入りを果たします。
ジュディの本名はフランシス・ガム。1922年に、映画の合間に母のピアノ演奏で父が演芸や歌を披露するボードビリアンの両親のもと、アメリカのミネソタ州で生まれました。3姉妹の末っ子であるフランシスは2歳半の時、姉2人が歌っている舞台に、止める間もなく突進して歌いタップまで踊ったのです。観客は芸達者な幼ない子供に大喜び。
「観客の喝采――素敵な素敵な響き――その中で私は2歳の時から生きてきたのよ」――フランシスは、会場に響き渡る声量と、人の心を鷲掴みにする感情表現豊かな歌唱力、ダンスの振り付けも台詞も瞬時で覚える、まさにエンターテイナーとして天賦の才に恵まれた天才少女でした。
やがて13歳で、映画会社MGMとジュディ・ガーランドの芸名で専属契約しますが、社長は思春期でふくよかな彼女の容姿が気に入らず、鳴かず飛ばずの状態。焦燥の日々が続きます。そして会社側は、ほっそりとした少女にしようと、ジュディに痩せ薬として覚せい剤、不眠には睡眠薬を与えました。当時、薬物での管理は、夢の世界ハリウッドでは恐ろしいことに常識だったのです。
そして、『オズの魔法使』に予定していた人気子役シャーリー・テンプルに断られた末、ジュディに役が転がり込んできました。結果、文句無しの演技力と歌唱力で、アカデミー子役賞を受賞したのです。
人気スターとなったジュディは、20歳を過ぎても『若草の頃』などの大作で瑞々しい演技を披露。しかしジュディは生涯、容姿コンプレックスと、完璧主義者ゆえに極度の恐怖心の呪縛にとらわれ、薬物に救いを求めていたのです――「その頃から私の人生は同じことの繰り返しになった」。さらに、「誰にも愛されていない」という強迫観念を抱いたジュディは、愛を求めて、19歳で結婚。生涯で5回結婚を繰り返します。
1945年には、映画監督ヴィンセント・ミネリと2度目の結婚。ライザ・ミネリ(後の女優、歌手)を出産します。しかし、極端な体重増減、酒浸りに薬物乱用、遅刻や撮影放棄、自傷行為などを繰り返し、長期入院に。挙句にはMGMを解雇され、ミネリとも離婚します。
傷心のジュディが癒されたのは、入院中に出会った障害を持つ子ども達でした。小児病棟を回り、語りかけて歓迎されたのです――「私は人の役に立てると思うことが大好きだったの」。そして、1954年に『スタア誕生』で見事にカムバック。アカデミー主演女優賞にノミネートされます。1961年のカーネギーホールでのコンサートは「ショービジネス史上最高の夜」と称賛されました。
生涯、数々のトラブルを巻き起こしながらも、ライブを続け珠玉の歌声を届けます。お騒がせスター、ジュディをファンは見捨てず愛しました――「私が歌う全てをみんなが感じてくれて、言葉を聴いてくれて、それでみんなが感動してくれることを願っているの」。しかし、長年の薬物とアルコールに蝕まれた身体はとうとう力尽き、47歳の若さで永遠に虹の彼方に旅立ってしまったのです。
1922~1969年。俳優、歌手。アメリカ、ミネソタ州の芸人一家生まれ。13歳でMGMと契約。青春スター、ミッキー・ルーニーの相手役で映画に出演、17歳で『オズの魔法使』の主役に。主題歌「虹の彼方に」も大ヒットし、人気スターとなる。ミュージカル映画やコンサート、テレビショーなどで溢れる才能を発揮し偉大な足跡を残すが、私生活のトラブルが多く、47歳で他界。子どもは女優・歌手のライザ・ミネリの他に1女1男がいる。