作家
ルーシー・モード・モンゴメリ
Lucy Maud Montgomery
私の想像力には
お伽の国へのパスポートが具わっていたのです
1908年6月、ボストンの小さな出版社から『赤毛のアン』が出版されました。33歳の作者ルーシー・モード・モンゴメリは「とうとう私は「本」を書いたのだ。……夢の実現は甘くすばらしい――夢と同じように」と喜びをかみしめます。
そして、「適度な成功を願っていた」はずが、たちまち世界的なベストセラーとなりました。さらに、少女向けで書いたつもりが、老若男女からファンレターが殺到したのです。
モンゴメリは、1874年にカナダのプリンスエドワード島で誕生しました。しかし、1歳9か月で母親が結核で他界。父親は娘を母方の祖父母に託します。気難しく厳格な老夫婦との息が詰まるような生活で、慰めは島の美しい自然に浸り、読書と空想に耽ることでした――「私の想像力にはお伽の国へのパスポートが具わっていたのです」
15歳の時にカナダ本土に渡り、“大好きなお父さん”と一緒に暮らします。詩やエッセイを投稿し、初めて新聞に載ったのはこの頃でした――「成功という酒杯に初めて注がれた甘き酒の泡立ち!」。でも、年若い義母とうまくいかず、1年後には愛する故郷に帰ります。
やがて島の教員養成短大に進み、20歳で学校の教師となります。そして、「書くことが私の大目的」と、作家への夢を募らせ、本土のダルハウジーで1年間、文学の講義を受講。再び教員生活をしながら、投稿を続けます――「ああ、書くことが大好き。クモが糸を吐いて巣を作るように物語を創るのが好き」
やがて、祖父が亡くなり遺言で郵便局の仕事を引き継ぎます。その間、最愛の父親の死や2人の男性との熱愛と別れを経験。そして、年老いた祖母の世話と家事に追われながら作家への道を諦めません。ある日、「年寄りの夫婦が手伝いの少年を孤児院に依頼したのに、女の子が送られてくる」と以前に書き付けたメモを見つけ「これだ」とひらめきます。
そうして、プリンスエドワード島を舞台に毎夜こつこつと書き上げたのが『赤毛のアン』でした。しかし、5つの出版社で不採用に。落胆から2年後、仕舞っていた原稿を見つけ、「そんなに悪くない」と手直ししたものがついに日の目を見たのです。
その3年後に祖母が死去。それまで5年間、秘密の交際を続けてきたユーアン・マクドナルド牧師とモンゴメリは晴れて結婚。36歳と40歳の門出でした。カナダ本土での結婚生活で2人の息子にも恵まれます。
有名作家で、巧みな話術と手作りのケーキで大勢の教会に通う人々をもてなすモンゴメリは、町の人気者に。多忙を極める中、アン・シリーズ、エミリー・シリーズなど次々にベストセラーを執筆。しかし、夫がうつ病を発症、それを隠し通します。煩わしい社交生活や、牧師夫人という社会的地位が次第に苦痛となり、「独力で生きている猫」のように気ままに生きたいと渇望するモンゴメリ――「神々は破滅させたいと思う人間を牧師の妻にするのだ」
様々な心労が重なった末にモンゴメリは67歳で亡くなりました。後に親族が彼女もうつ病だったと公表しました。思うに任せない人生だったかもしれません。けれども、モンゴメリの“お伽の国へのパスポート”が生んだアンは世界中の読者に夢を与え、今もプリンスエドワード島を訪れるファンが絶えないのです。
1874~1942年。作家。カナダのプリンスエドワード島で生まれ、母方の祖父母のもとで育つ。少女時代から詩やエッセイを投稿、作家を目指す。島の教師となるが、祖母の介護で家庭に入る。1908年、『赤毛のアン』で作家デビュー。1911年、ユーアン・マクドナルド牧師と結婚。アンやエミリー・シリーズを執筆。筆名は、L・M・モンゴメリかモンゴメリで通した。