作家
マイヤ・プリセツカヤ
Maya Plisetskaya
自分の運命を
他人が決めるなんて我慢ならない
1959年4月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でソ連のボリショイ・バレエ公演が開幕しました。一番の注目は、『白鳥の湖』の主役、33歳のマイヤ・プリセツカヤ。「20世紀最高のバレリーナ」と謳われながら、西側世界に初お目見えして、絶賛の嵐に包まれました。
マイヤ・プリセツカヤは、1925年にソ連のモスクワで誕生しました。父親は石炭公団のエリート、母親は元女優、叔父と叔母がボリショイ・バレエ団のバレエダンサーという芸術一家でした。「幼い頃から、音楽を聴くとすぐに踊り出すような少女」は、8歳でボリショイ・バレエ団付属のバレエ学校に合格します。
しかし1937年、マイヤの父が突然逮捕されます。当時のソ連はスターリンの独裁政権。恐怖の密告社会で疑わしい人物はすぐに粛清されました。父も確証もないままスパイとされ、連行後に銃殺されたのです。翌年には、母娘で叔母の舞台を鑑賞中に忽然と母が消えます。強制収容所送りとなったのでした。
「人民の敵の娘というレッテルを貼られたにも関わらず天職を失わずにすみました」――バレエ学校には似たような境遇の生徒がたくさんいたのです。そして1941年4月、母が釈放されましたが、6月にナチスがソ連に侵攻し戦争が勃発。マイヤ一家はモスクワから遠く離れた町に疎開します。しかし、レッスンしたい一心の16歳のマイヤは、3日間かけて独りモスクワに戻ります。
やがて、17歳でボリショイ・バレエに入団。しかし、薄給で群舞の役ばかり。それでもめげずにアルバイトで小さな劇場に出演。そこで人気となったのは『瀕死の白鳥』。サン=サーンスの4分間の小曲で、それまでの振り付けをマイヤ自ら改めて踊りました――「同じように踊る必要はない。もっと自由にすべき」
念願の大役が付いたのは21歳の時。『白鳥の湖』でした。白鳥に変えられるオデット姫、悪魔の娘黒鳥のオディールを見事に踊り分けます。まるで骨がないみたいと感嘆されたしなやかな動き、驚異の跳躍力、豊かな表現力で観客を魅了します。
それが評判を呼び、各国から招待されますが、マイヤは出国禁止者でした。秘密警察が24時間監視していたのです。イギリス公演参加への必死の嘆願もむなしく1956年、他のメンバーが出発すると、マイヤ達残留組で『白鳥の湖』を自主公演。公演を成功させるなという当局の圧力に反発し、「全身全霊で踊った」結果は大成功。「私の人生でこれほど成功した『白鳥の湖』はなかった」
そして32歳で7歳年下の作曲家シチェドリンと結婚――「喜びも悲しみも分かち合える人がいれば、希望が見えてくる」。その夫の援護のもと、共産党最高指導者への嘆願でやっとアメリカ公演に選ばれたのです。でも、亡命阻止の人質として夫は残され、同行は出来ませんでした。
ようやく世界に羽ばたいたマイヤは、自由の国アメリカで「自分達は囚人だ」と肌で感じますが、生涯亡命はしませんでした。何よりも家族とボリショイと、祖国の観客を愛していたからです。さらに、古典しか認めない当局と粘り強く交渉の末、『カルメン組曲』を創作し発表。
「自分の運命を他人が決めるなんて我慢ならない」と強靭な心で国家権力と闘い続けたマイヤは、80歳過ぎてもなお舞台に立ったのでした。
1925~2015年。バレリーナ。ソビエト連邦のモスクワ生まれ。ボリショイ・バレエ学校で学び、ボリショイ・バレエ団に入団。21歳で『白鳥の湖』の主役で大成功。『ドン・キホーテ』や『瀕死の白鳥』も当たり役。1959年、西側世界として初めてのアメリカ公演に参加。古典作品だけでなく『カルメン組曲』『バラの死』『ボレロ』などの創作バレエを踊る。40回以上来日し、親日家としても知られる。89歳でドイツのミュンヘンで死去。