清朝末期の権力者
西太后
Seitaiko
垂簾聴政も、もともとやむをえず行った非常の措置であった
以後、再び婦人に国政をまかせてはならない
中国・北京にある世界遺産の頤和園は、広大な人口湖を取り囲む名園で、清朝末期に半世紀もの間、政権の座にあった西太后が暮らした離宮でした。そして、彼女の見果てぬ夢を偲ぶ場所でもあるのです。
17世紀から満州族が統治する清朝の1835年、西太后は北京で中堅官僚の家に誕生しました。文官である父は西太后に読み書き、古典などの学問を施します。貴婦人であっても読み書きができないのは当たり前の時代に、西太后は深い教養を身につけますが、父の躾は厳しかったようです――「私は幼いときから苦労し幸せではなかった。父母は私を可愛がらず、妹ばかり可愛がった」
そして、清朝では3年ごとに選秀女という面接選考で后妃や皇族の夫人を選ぶ制度がありました。西太后は17歳で受験し、見事合格。翌年、第7代咸豊帝の側室として紫禁城の後宮に入り、1856年3月、待望の皇子を出産します。
しかし、英仏が中国を植民地化しようと第二次アヘン戦争が勃発。国内では内乱が起こり、中国は亡国の瀬戸際にありました。そんな1861年に咸豊帝が31歳で崩御。5歳の皇子が第8代同治帝に即位します。以来、後宮の東宮に住む正室である皇太后を東太后、西宮に住む皇太后を西太后と呼ぶようになりました。
同治帝は幼いため、東太后と西太后が垂簾聴政(玉座背後の簾の内側で補佐すること)を行うことに。でも、東太后は政治に関心がなく公文書が読めないため、26歳の西太后が政治を掌握することになりました。
しかし、同治帝が19歳の若さで病没。最愛の息子の死に西太后は泣き崩れます――「私の幸せは終わってしまいました」。そして、西太后の妹が咸豊帝の弟に嫁いで生した4歳の甥を第9代光緒帝としたのです。
西太后は自分のことを光緒帝に「親爸爸」(お父さん)、周囲には「老仏爺」(仏様)と呼ばせます。自らを男性化し、光緒帝を立派な皇帝に育てようと情熱を傾けたのです。
やがて、光緒帝18歳での大婚の礼を見届けると、西太后は54歳で頤和園に隠居します。引き続き政務を懇願した大臣には、「垂簾聴政も、もともとやむをえず行った非常の措置であった」と怒りを見せました。
西太后の夢は、実は息子として育てた光緒帝に大事にされ、頤和園で優雅な老後を送ることでした。美しいものに囲まれ、京劇や旅行を楽しみ、美と健康に気を配ること。しかし、それはつかの間の夢となります。
日清戦争に敗北後、光緒帝は急進的な改革と、まだ実権のあった西太后の幽閉を画策。この謀反に西太后は激怒し、逆に光緒帝を幽閉。64歳で再び政権に返り咲いたのです。
そして、諸外国に学び中国の近代化を目指します。学校や病院の設立、鉄道の敷設、満州族支配で差別されていた漢民族の官僚登用を許可。また、漢民族の悪習である女性の纏足を禁止します。47年間、清朝に君臨した西太后が亡くなったのは光緒帝崩御の翌日のこと。72歳でした。
「以後、再び婦人に国政をまかせてはならない」と言い遺して。国のために男並みに生きざるを得なかった心残りの言葉だったのかもしれません。でも、後宮から羽ばたき国難に立ち向かったパワフルな生涯でした。
「翔鳳為林」(女たちよ、飛び立て)――紫禁城の後宮に掲げられた扁額に西太后直筆で書かれた言葉です。
1835~1908年。清朝末期の権力者。満州族の葉赫那拉氏に生まれる。18歳で咸豊帝の側室となり同治帝を産む。女性は家や嫁ぎ先の地位で呼ばれたため、同治帝即位後、西宮に住む皇太后として西太后と呼ばれた。幼い同治帝と次の光緒帝の後見人として47年間政権を握り、死に際に溥儀を次の皇帝に指名。その3年後に清朝は滅亡した。英国の工作員が中国の植民地化を有利にするため、西太后は残虐な女帝という捏造本を出版。さらに作り話の映画がヒットし、西太后は稀代の悪女というイメージが広まった。