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時を創った美しきヒロイン

満州国皇弟妃

愛新覚羅 浩

Hiro Aishinkakura

私は夫との結婚に一度たりとも悔いを
覚えたことがありません

 1937(昭和12)年4月3日、満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑(29歳)と嵯峨浩(23歳)の婚礼が、東京で盛大に執り行われました。式場に向かう車に振られる祝福の旗の波に、浩の胸が熱くなります――「是非とも日満親善に全力を尽くし、皆さまの期待にお応えしなければ…」

 大正3年、嵯峨侯爵家の長女として浩は誕生しました。浩の祖母は明治天皇の生母の姪にあたります。油絵や書に熱中する令嬢生活が一変したのは、昭和11年11月。陸軍大将が溥傑氏の妃に浩が内定したと告げに来たのです。一家は上へ下への大騒ぎとなり、祖母は泣き出します。

 昭和7年、関東軍は中国東北部に「満州国」を建国。その傀儡国家に、清朝最後の皇帝溥儀を名ばかりの満州国皇帝に担ぎ出します。しかし、溥儀に世継ぎができないため、日満一体の美名のもと、皇室に近い浩と溥傑の政略結婚を軍が画策。溥傑は士官を目指し日本で勉強中でした。

 軍部には逆らえない時代、浩は不安な面持ちで見合いに臨みますが、溥傑とはお互い一目惚れに――「軍人よりも学者か文人がお似合いの方…」。猛反対していた浩の祖母も「人の心を解きほぐす春風のようなものをお持ちの方」と賛成したのです。

 新婚の2人は間もなく新京(現在の長春)で暮らし始めます。しかし、現地での軍部の横暴ぶりや満州人への差別に浩の心は痛みます。溥傑すら見下す態度でした――「関東軍にあらざれば人にあらず。私など虫ケラ同然の存在に映るのでしょう」

 しかし、苦労も多い中、2人は信頼しあい美しい夫婦愛を育んでいきます。長女慧生、次女嫮生も授かります。日本に一時帰国した際は、学齢に達した慧生を嵯峨家に預け、嫮生と3人で新京に戻ったのです。

 昭和20年8月10日未明、寝耳に水でソ連軍が侵攻! 知人は浩にすぐの日本帰国を促しますが、「私は中国の土になると誓った身。皇帝と夫を見捨てては帰れない」と拒否。

 そして、皇帝と溥傑とは別行動に。5歳の嫮生を抱えた浩は、溥儀の妻でアヘン中毒の婉容皇后と共に、中国共産党軍や国民党軍の捕虜となり、監獄などを転々とします。六千㎞を超える過酷な道中、婉容は命を落とします。命からがら日本に帰国できたのは昭和22年のことでした。

 こうして母娘3人が揃いましたが、溥傑の安否は不明のまま…。やがて、慧生は日中友好の懸け橋になりたいと中国語を猛勉強。そして、溥傑は中国の戦犯管理所に留置中と判明します。そんなある日、日赤を通して溥傑から手紙が届きます。なんと、慧生が中国の周恩来首相に、父との文通を乞うため中国語で手紙を出していたのです。

 しかし昭和32年、19歳の慧生は、無理心中の道連れで命を奪われました。「生きたまま手足をもがれる苦しみ」に浩は臥せってしまいます。

 ようやく夫婦が再会できたのは、別離から16年の時を経た昭和36年のこと。2人は新婚夫婦のように仲睦まじく北京で暮らします。激動の昭和を生き抜いた浩が亡くなったのは、73歳の時。「浩さん、浩さん」と声を上げ、遺体にすがって号泣する溥傑の姿に誰もが涙を誘われました。

 浩が遺した言葉です――「私は夫との結婚に一度たりとも悔いを覚えたことがありません。半ば強制された結婚であっても、夫と私との間は深い愛で結ばれていたのです」

Profile

1914~1987年。満州国皇弟妃。嵯峨侯爵家令嬢として誕生。女子学習院高等科を卒業後、満州国皇帝の弟溥傑と23歳で結婚。新京(現・長春)で暮らし二女をもうける。敗戦と同時に夫と生き別れ、幼い次女を抱え捕虜となり流浪。昭和22年に日本帰国。周恩来に父との文通の嘆願書を出した長女慧生が、昭和32年に無理心中の犠牲で死去。別離から16年後、特赦となった夫と再会し、以後、北京で暮らし日中友好に尽くした。