ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝の妻
竹鶴 リタ
Rita Taketsuru
日本で夫とずっと暮らし、マサタカを支えるのが私の仕事。
1919(大正8)年、英国では、まだ日本を知らない人が多かった頃。スコットランド・グラスゴー郊外の開業医カウン家のアフタヌーンティーに竹鶴政孝が招かれました。カウン家の末っ子の少年が「日本の柔道を習いたい」と言い出したことから、ただ一人いた日本人留学生・政孝を見つけてきたのです。
その席で、25歳の政孝は、少年の長姉である23歳のリタと出会います。「大きな、きれいな目で私を見つめていた女性がいた」――運命の瞬間でした。
リタは、1896年に生まれました。本名はジェシー・ロベルタ・カウン、愛称リタでした。病弱だったリタは、読書とピアノを愛する物静かな女性に育ちます。
一方の政孝は、1894年に広島県竹原市の造り酒屋に誕生。大学で醸造を学び、摂津酒造に就職します。当時の日本のウイスキーは、アルコールに香りと色を加えた模造品が主流でした。本物のウイスキーを造りたいという社長と政孝の夢が一致し、政孝のスコットランド留学が実現します。しかし、異国でたった独り…。政孝はくじけそうになっていました。
そんな二人が次第に心を通わせ、恋に落ちたのです。そして、結婚を約束しますが、双方の親族は猛反対。国際結婚への理解は得られませんでした。政孝は、リタのためにスコットランドに残ってもいいと言い出します。しかし、リタははっきりと告げます――「あなたの夢は日本で本当のウイスキーを造ること。私もその夢を手伝いたいのです」
家族の祝福もなく登記所でひっそりと結婚届けを出した二人は、1920(大正9)年11月、はるばる海を越えて日本に到着。しかし、帰国した日本は大不況でした。設備と手間暇のかかるウイスキー製造の計画は頓挫し、政孝は退社。リタは英語やピアノを教え、家計を助けます。
「日本で夫とずっと暮らし、マサタカを支えるのが私の仕事」――
文化風俗のまったく違う異国で、青い目のリタは好奇の目にさらされます。それでも、望郷の思いを断ち切り、必死に日本人になりきろうとします。漬物や梅干し、イカの塩辛まで作るのです。でも、家では妻と会話をせず、休みなく働く典型的な亭主関白となった政孝にはNO!と言いました。なんでも話し合い、休日は一緒に余暇を楽しむ夫へと導きます。
寿屋(現サントリー)でのウイスキー造りを経て、政孝が新天地・北海道の余市に辿り着いたのは、1934(昭和9)年のこと。スコットランドに似た気候、原料の大麦から燃料、たる用の木材にきれいな水が揃った理想の土地でした。余市に着いてリタは驚きます。故郷にそっくりの山並み、そして海――「ここが夢の工場。私の生涯の町」
しかし、資金繰りに苦しむ日々。リタは、毎日、温かなお弁当を工場に届け政孝を励まします。1940年にようやく出荷となったニッカウヰスキーは、二人の愛の結実そのもの。最初の1本はリタに捧げられました。戦後、その本格的な味わいは多くの人に好まれるようになり、ニッカの名は広まっていきます。
「人生を自分の意思で切り拓いたことを憶えておこう」と晩年に記したリタが亡くなったのは64歳の時。政孝は自室に引きこもって泣き明かし、葬儀の間も人前に出ませんでした。
1896〜1961年。スコットランド、グラスゴー郊外の開業医の家に誕生。本名ジェシー・ロベルタ・カウン。留学中の竹鶴政孝と知り合い結婚。1920年に日本へ。政孝は寿屋(現サントリー)でウイスキー造りのいしずえを築いた後に独立。北海道余市にニッカウヰスキー蒸溜所を造る。リタは、終生夫の事業を支えるが、戦時中は敵国人として監視下に。夫妻が暮らした洋館は、ニッカ余市蒸溜所と共に見学ができる。