送料無料
合計金額 0
レジへ進む

時を創った美しきヒロイン

歌手、女優

笠置 シヅ子

Kasagi Shizuko

歌い、踊り、咆え、叫んで
客席と一体化した熱気のうちに、
他新しく生きる力を感じた

 敗戦後の1947年、焼け跡で食うや食わずの毎日をおくる人々が、ラジオから流れてきた「東京ブギウギ」という今までに聴いたことのない陽気な歌に熱狂。たちまち歌い手笠置シヅ子の人気が爆発、戦後のスーパースターとなったのでした。

 笠置シヅ子、本名亀井静子は、1914(大正3)年に香川県東かがわ市(現在)で誕生。まもなく大阪に住む亀井夫妻の養女となります。芸事の大好きな養父母は、静子にも幼い頃から日本舞踊や三味線を習わせます。養父が営む銭湯の脱衣所で、得意な歌や踊りを披露する静子の姿は近所の評判に。やがて、小学校を卒業すると迷わず宝塚音楽歌劇学校を受験しますが、身長が足りずに不合格。落胆して帰宅した静子に、ご近所さんが「道頓堀で宝塚みたいのやってまっせ」。静子はすぐさま道頓堀の松竹楽劇部に駆け込みます。

 どうしても宝塚を見返したい静子は「どんなことがあっても辛抱しますさかい、どうかお願い申します!」とまくし立てると、その勢いで即座に合格。ここから静子の奮闘が始まります。誰が休んでも代役で出られるように全部の役を頭に入れます。

 その努力が実り、大阪松竹楽劇の看板スターに。芸名も笠置シヅ子となり、23歳で東京進出を果たします。そこで出会ったのが新進作曲家の服部良一でした。大阪の歌姫と聞いて期待していた服部は、小柄で下がり眉、ショボショボ目の貧相な女の子にがっかり。しかし舞台稽古が始まると、シヅ子の迫力ある踊りとスイング感に圧倒されてしまいます。

 そして、服部作曲のジャズを歌いシヅ子は「スイングの女王」と絶賛されます。しかし1940年、戦況悪化で「敵性歌手」の烙印を押され、警視庁からジャズ禁止、直立不動で歌えと命令が――「戦争中の五年間のブランクはアテの地獄でした」

 地方巡業や工場慰問でしのぐ不遇の日々、1943年29歳の時、名古屋の劇場で「眉目秀麗な青年」と出会います。吉本興業の跡取り息子で20歳の学生、吉本頴右でした。明日をも知れぬ空襲の恐怖の中、2人は燃えるような激しい恋に落ちます。結核を患っていた頴右との同棲生活は「わが生涯の最良の日々」という幸せに満ちたものでした。

 そして敗戦。家も焼け裸一貫となったシヅ子は、1947年5月に頴右まで結核で失い、数日後に女の子を出産――「なんでひと目でも赤ん坊を見て行かれなかったのだろう」

 悲嘆のどん底にいたシヅ子は、生涯ただ一人愛した人の忘れ形見を守るため涙をぬぐい再起を決意。服部はシヅ子のために「何か心がうきうきするものを」と「東京ブギウギ」を作曲。「全身のエネルギーをふり絞り、歌い、踊り、咆え、叫んで客席と一体化した熱気のうちに、新しく生きる力を感じた」――この歌は自分自身だけでなく、人々をも元気づける復興ソングとなったのです。

 さらに「ヘイヘイブギ」「買物ブギ」など次々にヒットを連発、「ブギの女王」と呼ばれます。また、舞台や映画で歌う喜劇女優としても大人気に。しかし、1957年に突然の歌手引退。「自分が最も輝いた時代をそのまま残したい」――若いスターの台頭に、歌って踊る限界を感じたのです。以後は女優として活躍。そのシヅ子が亡くなる70歳まで肌身離さず持っていたのは、頴右から初対面でもらった名刺でした。

Profile

1914~1985年。歌手、女優。香川県生まれで大阪育ち。小学校卒業後、宝塚を受験し不合格に。その日のうちに松竹楽劇部生徒養成所に入る。大阪松竹楽劇のトップスターとなり、23歳で東京進出。松竹楽劇団の副指揮者・服部良一と出会い終生師弟関係に。1947年、服部良一作曲の「東京ブギウギ」で人気爆発。「ブギの女王」と呼ばれる。大阪弁の喜劇女優として映画や舞台でも大人気に。43歳で歌手引退後は女優、タレントとして活躍。