詩人
茨木 のり子
Noriko Ibaragi
自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ
1999年10月、詩人茨木のり子の詩集『倚りかからず』が出版されました。〈もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない…〉で始まる表題作を含め15編の詩が収められた作品集でした。それが15万部のベストセラーとなったのです。詩集という地味な存在の文芸作品としては異例なこと。まさに事件でした。
茨木のり子は、宮崎のり子として1926(大正15)年、医師である父親の赴任地大阪で生まれ、愛知県西尾市で育ちます。15歳の時に日本は太平洋戦争に突入。戦時下にあって、〝女もまた自立すべき〟という先進的な考えを持つ父親が進学先を決定。のり子は、東京の帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学します。
しかし、理系的な才に恵まれなかったのり子は「自分自身への絶望と、時代の暗さに絶望」していきます。やがて、学徒動員生として工場で働く19歳の夏、敗戦を迎えたのでした。
そして、日本は一夜にして大変換します。「さまざまな価値観がでんぐりかえって、そこから派生する現象をみるにつけ、私の内部には、表現を求めてやまないものがあった」――軍国主義に翻弄された青春時代に別れを告げたのり子は、まず戯曲家を目指すのです。そして、次第に興味は詩へと向かっていきます。
23歳でのり子は結婚。夫で医師の三浦安信は、妻の詩作を応援。ペンネームを茨木のり子とし、こつこつと投稿を始めます。さらに、詩人仲間と同人誌『櫂』を創刊します。
「解釈を加えないと判らないような詩は書いていないつもりです」――詩は難解なものが高尚という風潮を打ち破り、のり子は平易で真っすぐな、それでいて人の心に響く言葉で詩を紡いで発表していきます。
〈根府川/東海道の小駅/赤いカンナの咲いている駅……〉終戦の翌日、故郷へ帰った日の思い出を書いた「根府川の海」。〈わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした……〉戦争で奪われた青春の無念さを表現した名詩「わたしが一番きれいだったとき」。のり子の詩の世界に、人々が魅了されていくのです。
〈自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ……〉「自分の感受性くらい」は、のり子が自分を叱咤した詩でした。「個人の感性こそ生きる軸になる」というのり子の深い想いは、読む人をも励ましました。「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります」(『詩のこころを読む』)――若い世代へ向けたのり子の永遠のメッセージです。
そんなのり子にも最大の悲しみがありました。49歳の時、最愛の夫・安信が病死したのです。死をも考えた虚ろな心に灯をともしたのが韓国語の勉強でした。「隣の国の言葉ですもの」――猛勉強の末、韓国詩人の訳詩に取り組むようになります。やがて73歳の時、前作から7年を経て発表した『倚りかからず』が、多くの人の心を捉えたのでした。
2006年2月17日、のり子は急逝します。遺されていたのは、「Y」と書かれた箱。中に入っていたのは、喪った安信を想う詩の数々でした。それらは、『歳月』として刊行。凛として潔い詩を紡いだのり子の印象とはまた違った、やわらかな愛に満ちた詩集となったのです。
1926~2006年。詩人。大阪生まれ、愛知県育ち。戦後すぐに、薬剤師の資格を得るが薬剤師になることなく、詩を書き始める。1955年に川崎洋とともに詩の同人誌『櫂』を創刊。やがて詩集『対話』『見えない配達夫』『自分の感受性くらい』などを出版。批評精神あふれる詩からユーモアに満ちた詩まで、数々の詩で幅広い年齢層の読者を魅了。没後、亡夫への愛にあふれた『歳月』が出版された。