女優
杉村 春子
Sugimura Haruko
自分で選んで歩き出した道ですもの。間違いと
知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ
文学座の看板女優・杉村春子の舞台『女の一生』が1990年、84歳で947回上演という記録を出しました。孤児の主人公・布引けいが堤家に拾われ、やがて一家を背負って立つ波乱万丈の芝居で、春子は10代から60代まで演じました。そして、「一生を舞台で過ごした果報者、そう言われたら私は満足です」という春子の挑戦はまだまだ続いたのです。
杉村春子は明治39年に、広島で芸者と軍人との間に生まれ、すぐに花街で建築資材などを商う中野家の養女に。家は裕福で、幼い頃から劇場で歌舞伎や新派、文楽、歌劇などを観て育ちます。そんな春子が抱いた夢は「声楽家になること」でした。
女学校に上がった頃にはすでに養父は病没。代わってひたすら娘の幸せを願う養母に、春子は分不相応な高価なピアノを買わせます。そして、東京音楽学校(現・東京藝術大学)を母の猛反対を押し切って受験。しかし、2年続けて落第。失意の底で、故郷の女学校で音楽教師となります。そんな日々、噂に聞いていた、新しい演劇を目指す築地小劇場の広島公演が。「こここそ私の行くべき道」――19歳の春子は、初めて観る翻訳劇に感動し上京を決意。
そして1927年(昭和2年)、築地小劇場に飛び込むと、「広島訛りがひどいから、3年くらい標準語の勉強をするなら採用してもいい」という結果に。でも翌日、台詞のないオルガン弾きの役で舞台に引っ張り出されたのです。芸名「杉村春子」での初舞台でした。
その2年後に劇場主宰者の小山内薫が急逝。先行き不安な春子を支えたのが長広岸郎で、2人は結婚します。長広は5歳下の慶應義塾医科の学生で、身分違いの結婚に長広は勘当に。どん底生活でも「幸せだったあのころ。純情で、純粋で、一途で」
昭和12年に、芸術至上主義を目指し文学座が結成、春子も創立に加わります。しかし、結核を患っていた長広が昭和17年に他界。時代は、悲しみに浸る余裕もない戦時下でした。
そして戦争末期、劇作家の森本薫が春子のために『女の一生』を書き上げます。空襲警報が鳴り明日をも知れぬ日々、春子と妻子ある森本は恋に落ちたのです――「恋もできないようでは、役者なんて一日だってつとまるものではありません」
昭和20年4月、渋谷の劇場に、防空頭巾を被った観客が押し寄せ『女の一生』の幕が上がります。5日間の公演でした――「これでもう芝居はできない、死ぬかもしれない」
やがて終戦後の翌年、森本も結核で亡くなります。激しく泣き崩れた春子は、追悼公演で『女の一生』を再演。全国巡演もします。そして、『欲望という名の電車』『鹿鳴館』『華岡青洲の妻』などの話題作に出演。さらに映画やテレビでも活躍。リアルな演技、細やかな表現力で日本を代表する名女優になるのです。
その活躍の陰で、劇団員の大量脱退、再婚した夫、石山季彦の病死などの苦難が続きます。それでも「芸に情熱の炎の消えない役者になりたい」と一途な思いで春子は前に歩みます。
「自分で選んで歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ……」――一番好きという『女の一生』の台詞のままに生きた春子は、平成9年3月、公演直前に降板。翌月、91歳で人生の幕を引きました。最期まで次回作の台本を読んでいたのでした。
1906~1997年。女優。広島市生まれ。広島で音楽の代用教員をしていた時に築地小劇場の巡演を観て女優を目指す。1927年、『何が彼女をそうさせたか』でオルガン弾きの役でデビュー。1937年に文学座創立に参加。『女の一生』『欲望という名の電車』『ふるあめりかに袖はぬらさじ』などヒット舞台多数。映画界でも活躍し、『東京物語』『流れる』『赤ひげ』など多数の名作に出演。1995年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』に主演し、数々の映画賞に輝く。没後、新人賞として杉村春子賞が創設された。