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時を創った美しきヒロイン

舞踏家

イサドラ・ダンカン

Isadora Dunkan

裸に回帰した人間の動きは
自由な動物のように自然で美しい

  20世紀が始まってすぐの1901年、アメリカ人舞踏家イサドラ・ダンカンがヨーロッパでセンセーションを巻き起こしていました。女性達がコルセットで身体を締め付けたドレス姿だった時代、ほとんど裸に近い薄衣に裸足で踊るイサドラに人々は驚愕。しかし、独創的な美しいダンスに観客は熱狂したのです。

 イサドラ・ダンカンは、1877年にサンフランシスコで生まれました。イサドラの誕生目前に、父親が破産し出奔。母親はピアノ教師をして、イサドラと3人の兄姉を育てます。極貧の生活でも、芸術や文学の香気溢れる暮らしでした。

 幼いイサドラは母のピアノを聴くと自然に身体が動きます。時間があれば、海岸で靴を脱ぎ棄て一人で気ままに踊ります――「私が初めて動きやダンスについてひらめいたのは、波のリズムからだった」

 そんなイサドラのダンスは近所で評判となり、すでに10歳になる前から子供達にダンスを教えています。やがて、ダンサーを目指しニューヨークへ移住。しかし、イサドラの前衛的なダンスでは食べていくことが出来ず生活に困窮。芸術と文化の中心地であるヨーロッパに活路を求め、家畜船に乗って渡英したのです。

 持ち金のないイサドラは大英博物館で時間をつぶします。彼女を魅了したのは古代ギリシャの壺や彫像でした。人間の裸体こそ美の根源と感動したのです――「胸いっぱいにその美を吸い込むことができた」

 1900年、パリで万国博覧会が開かれた年、イサドラもパリへ向かいます。パリで様々な文化を貪欲に吸収し、ダンスのスタイルが定まります。バレエの形式に囚われず、肉体を自由に解放して表現するという現在のモダンダンスの手法でした。

 簡素な舞台で、理想とするギリシャ彫刻のようなシンプルなチュニック姿で、流れるように踊るイサドラは「裸足のイサドラ」と呼ばれました。そして、ヨーロッパ各地で大人気に――「自然こそ美の根源である。裸に回帰した人間の動きは自由な動物のように自然で美しい」

 さらなるイサドラの夢は、少女達に自身のダンス理論を伝えることでした。そんな念願のダンス学校を1904年に27歳でベルリンに創設。ダンスが子供の教育に必要不可欠と主張します――「新時代の新しい女性の身体、限りなく自由な身体に、自由な精神と最高の知性が宿る」

 また、恋愛にも自由を求めたイサドラは、未婚のまま2人の男性との間に長女ディアドリー、長男パトリックをもうけます。「私は世界で一番幸せな女。私の芸術、成功、愛、何よりも可愛い子供達がいるから」――ダンスは喜びに彩られます。

 しかし35歳の時、幼い2人の子を乗せた車がセーヌ川に転落。溺死の知らせに狂気に陥るイサドラ…。学校だけが生きる支えでした。そして、革命後の新生ロシアから招聘され、「私の人生の夢を実現するために」ダンス学校をモスクワにも開設。しかし、ロシアの経済発展が追い付かず、失敗に終わります。

 パリへ戻ったイサドラは1927年7月8日、アヴェマリアの曲で悲しみを表現。観客は涙します。その2か月後、ドライブ中にストールが車輪に絡まり命を落とします。50歳でした。イサドラのダンスは消え去りましたが、革新的なモダンダンスの思想は今に受け継がれているのです。

Profile

1877~1927年。舞踏家。サンフランシスコ生まれ。赤ん坊の頃から踊ることが大好きでダンサーを目指す。1899年に渡英。そしてパリへと移り住む。芸術の都でイサドラの前衛的なダンスが花開き、ヨーロッパ各地で公演。簡素な衣装、裸足で踊るスタイルが一世を風靡、「裸足のイサドラ」と呼ばれた。27歳でベルリンにダンス学校を創設、後にロシアでも設立。モダンダンスの母とされる。交通事故により50歳で死去。