画家
ベルト・モリゾ
Berthe Morisot
女性はたとえどんなに大きな愛情を夫に注いでも、
自分の仕事を簡単にあきらめられないと思います
フランス近代美術の創始者とされる画家エドゥアール・マネが描いた肖像画の代表作に『菫の花束をつけたベルト・モリゾ』があります。黒のドレスと帽子の女性のまっすぐな眼差しが魅力的な作品ですが、モデルとなったベルト・モリゾは印象派の中心的な画家でもありました。
ベルト・モリゾは、1841年にフランス中央部のブールジュで誕生しました。父親は各地の知事を歴任し、ベルトが11歳の時から一家はパリに居住。ある時、母は父の誕生日に娘たちの絵を贈ることを思いつき、3姉妹を絵のお稽古で画家のもとへ。
そこで、ベルトと一つ上の姉エドマは絵に夢中になるのです。しかし、音楽や絵は良家の子女のお稽古事とされ、官立美術学校の扉は女性に閉ざされていた時代。2人は私的な画塾で学び、ベルトは17歳でルーヴル美術館での模写の許可を得ます。当時、模写こそが最高の勉強だったのです。
1864年、姉妹はサロン(官展)で初入選を果たします。4年続けて入選した頃、ルーヴル美術館で姉妹はエドゥアール・マネを紹介され、ベルトはすぐにモデルを頼まれます。そして、モデルとしてマネのアトリエで過ごすうちに、既婚者のマネに心がときめいていくのです――「彼のためにポーズを取り、この上なく魅力的な彼の才気がその長い時間の間、私を目覚めさせていました」
そんなベルトが28歳の時、姉エドマが結婚。いつも切磋琢磨してきた姉が去り、ベルトは落胆します――「女性はたとえどんなに大きな愛情を夫に注いでも、自分の仕事を簡単にあきらめられないと思います」
それでもベルトは「私は少しばかりお金を稼ぎたいのです」と、趣味ではなく画家として自立したいと決意。そして、革新的なマネに憧れ、その画法を学ぶ一方で、サロンに出品する絵にマネが手を加えたことに憤ります――「この絵が入選するくらいなら川に身を投げたほうがまし」
孤独な日々、創作に悩みながらも、里帰りしたエドマとその赤ちゃんを繊細に巧みに描いた『ゆりかご』を完成させます。その絵で1874年、モネ、ルノワール、ドガらの第一回グループ展に参加。モネの『印象・日の出』から印象派と名付けられた美術史の画期的な展覧会でした。
しかし、大胆な筆づかい、明るい色彩で戸外の光を表現したグループの作品群は散々こき下ろされます。その中で、ベルトだけは「骨の髄まで才気にあふれている」と批評されました。以後、印象派の旗手として活躍していくことになるのです。
そしてその年の暮れ、マネの弟ウジェーヌ・マネと33歳で結婚――「誠実で善良な、そして私を心から愛してくれる男性と出会いました」。ウジェーヌはベルトの才能を称賛し、妻の仕事を応援していきます。その4年後、一人娘のジュリーを出産。ジュリーを多く描くようになります。
そのウジェーヌが1892年に病死。愛の贈り物としてベルトの初の個展を準備しているときのことでした。
4年後、ベルトは54歳でインフルエンザで命を落とします。16歳のジュリーに死の前日、手紙を書き遺して――「可愛いジュリー、あなたを死ぬほど愛しています。死んでも愛しています。どうぞ泣かないで。別れは必ず訪れるのですから」
やがて、女性であるがゆえに埋もれた存在となったベルトに光が当てられたのは20世紀後半のことでした。
1841~1895年。画家。フランスのブールジュ生まれ。高級官吏の父と、ロココ美術の巨匠フラゴナールの遠縁の母のもとに生まれる。お稽古で絵を習い、本格的に画家を目指す。1864年にサロンに初入選。エドゥアール・マネと出会い、モデルを務めるかたわら、マネから画法を学ぶ。モデルとなった絵は15点が現存。1874年、第1回印象派展に参加。同年、マネの弟ウジェーヌと結婚。印象派の中心的画家として活躍し、大胆なタッチ、明るい色彩で日常のひとこまを繊細に描いた。