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時を創った美しきヒロイン

政治家、人権活動家

エレノア・ルーズベルト

Eleanor Roosevelt

この地球上にいるかぎり、
人種、信条、肌の色など関係なく、
皆兄弟なのです

 1945年4月12日、ナチス降伏の4週間前、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトが急死しました。国民に大人気のファーストレディ、エレノアは「物語は終わりました」とつぶやきます。しかし、この悲劇は彼女の第二の物語の始まりでした。戦後に、国際連合のアメリカ代表に任命されたのです――「私が役に立つのならばできる限りのことをし続けます」

 エレノアは、1884年にニューヨークの裕福な家庭に誕生しました。父親は、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの弟という名門でしたが、アルコール依存症に苦しんでいました。社交界の華である美貌の母親は、娘の容姿を気に入らず、可愛がることはありませんでした。やがてエレノアが8歳の時に母親が、10歳の時に父親が亡くなります。

「人から注目されたい、褒められたいと、ずっと思っていました」――人から愛されることなく劣等感でいっぱい、引っ込み思案なエレノアは、15歳でイギリスの女学校に留学。そこで、フェミニストで進歩的な校長の教えに、社会に目を見開きます。そして、頭脳明晰で人に親切なエレノアは、思いもかけず生徒の人望を集めます――「この学校に来て初めて恐怖から解放されたのです」

 3年後に帰国し、貧困層の児童施設で働き始めます。エレノアにはおよそ縁のない貧困問題に目を向けるきっかけとなりました。その頃、遠縁で3歳年上のフランクリン・ルーズベルトと再会したエレノアは交際を深め、1905年に結婚。6人(1人は夭折)の子供に恵まれます。そして、フランクリンが州議会議員となり政界に進出しました。

 1921年、フランクリンは39歳でポリオに罹患。歩行が不可能となります。絶望するフランクリン。「女はティーバッグみたいなもの。熱湯につけられて初めてその強さに気づくのです」――内気だったエレノアが表舞台に出たのです。演説や記事の執筆で夫をアピールします。

 妻の援護で、フランクリンは州知事選に勝利しますが、翌年、株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が勃発。エレノアは失業者に仕事や食物、衣類を提供することを提言。弱者救済はエレノアの信念でした。そして1933年、フランクリンはついに大統領に選ばれたのです。

 ファーストレディとなってもエレノアの視線は常に社会的弱者に向かっていました。大統領に代わって、全米を視察し、政策に反映させていきます。さらに、彼女が力を入れたのは、女性の地位向上と人種差別撤廃でした――「この地球上にいる限り、人種、信条、肌の色など関係なく、皆兄弟なのです」

 人種差別主義者から脅されても、エレノアは屈しません。ホワイトハウスに黒人の非行少女たちを招きパーティーまで開きます。ホワイトハウス史上初の黒人の招待客でした。

 戦後、こうしたリベラルな姿勢から国連のアメリカ代表となり、人権委員会の委員長に就任。世界人権宣言の起草をし、1948年に採択されました。人はすべて平等で自由であること、いかなる人権侵害もあってはならないと明言したのです。

 人権擁護者として世界中の尊敬を集めたエレノアは、78歳で亡くなるまで世界の平和のために行動し続けたのでした――「未来は美しい夢を信じる人のためにあります」

Profile

1884~1962年。政治家。人権活動家。アメリカ、ニューヨーク生まれ。上流家庭に生まれるが、10歳で両親と死別。21歳で遠縁のフランクリン・ルーズベルトと結婚。1933年、フランクリンが大統領に就任。歩行が不自由な夫に代わり全米を回り、政策を提言。一貫して、女性、黒人などの社会的弱者の擁護に奮闘する。戦後、国連アメリカ代表として、世界人権宣言の起草に尽力。世界のファーストレディと称賛された。