画家
マリー・ローランサン
Marie Laurencin
私の唯一の誇りはパリに生れたこと。
セーヌは私の河
柔らかなパステル調の色彩で、夢見るような女性たちを描いた画家がいます。その人は、マリー・ローランサン。独特の甘やかな感性の持ち主でした――「男の天分というものにおじけづくとしても、私は、女らしいこととなると、なんでも完全に気楽になれるのです」
マリー・ローランサンは、1883年パリで、地方から出てきたお針子の母親と、後に代議士となる父親の婚外子として生まれました。母はそんな身を恥じ、周囲と距離をおき、母娘二人だけの暮らしに。閉ざされた空間で、マリーを惹きつけたのは母の仕事道具のリボンやレース、絹の布などでした――「私は絹糸が好きでした。真珠や、色のついた糸巻きなどを盗ったりしました」
やがて、父の援助で良家の子女が通う有名校で学びます。そして、お嬢様のたしなみだった磁器の絵付け教室に通ううちに、本格的に絵を学ぼうと画塾に導かれます。「さびしい、みにくい、そしてなんの希望もない娘でした」――自分に自信の持てないマリーが画家仲間と友情を育み大きく変貌していくのです。
画塾では野獣派(フォービスム)の画家マティスからアドバイスを受け、画塾仲間のジョルジュ・ブラックからはピカソを紹介され、彼らが繰り広げていた立体派(キュビズム)に刺激を受けます。そして、美術評論家で詩人のギョーム・アポリネールと出会い、熱い恋に落ちたのです。
彼は、毎日のように熱烈な愛の詩を捧げ、様々なアートシーンでマリーを賛美。その中でマリーは自分の才能を見出していきます。詩人コクトーは、「野獣派と立体派の間で罠にかかった可憐な牝鹿」と同情しましたが、マリーはどちらにも染まらず独創的な個性を開花。新進画家として活躍するようになります。
しかし出会いから5年後、アポリネールに別れを告げます。彼の情熱と嫉妬深さにおののいたのです――「彼を愛したほど人を愛することは、もう決してないでしょう」
さらにマリーは、母親を亡くし天涯孤独に。そんな時に出会ったドイツ人画家ヴェッチェン男爵と1914年に結婚しますが、新婚旅行先で第一次世界大戦が勃発。敵国人となった2人は、そのまま中立国スペインへ亡命せざるを得ませんでした。
異郷で酒と享楽にひたる夫。マリーは夫への愛も冷め、望郷の念を募らせます。「私の唯一の誇りはパリに生れたこと。セーヌは私の河」という生粋のパリジェンヌ、マリーが何よりもつらいのは、パリへ戻れないこと。アポリネールがスペイン風邪で亡くなった訃報も届きます。孤独さを哀切な詩に表しました。
流浪の身よりは/死んだ者
死んだ者よりは/忘れられて
1920年、大戦終結後に離婚をし、ようやくパリに帰還したマリーは画壇に復帰します。「私が絵を描くのは自由でありたいから」――苦境を脱した絵は明るく華やかなものに。肖像画の依頼が殺到し、バレエの舞台装置、衣装でも活躍します。
「贅沢好き。パリ生れがとても自慢。演説も、人の悪口も、忠告も、お世辞も好きじゃない。早く食べ、早く歩き、早く読む。とてもゆっくり絵を描く」――絵筆と共に生きたマリーが1956年に亡くなると、遺言通りに亡骸は白いドレスに包まれ、赤い薔薇を手に、アポリネールからの手紙の束と共に埋葬されました。
1883~1956年。画家。パリ生まれ。アンベール画塾で絵を勉強し、ジョルジュ・ブラック、ピカソやアポリネールらと交流。彼らの前衛運動に接するうちに、独自の画風を確立。アポリネールとの熱愛を経て、ドイツ人男爵と結婚。ドイツ国籍となったため、第一次世界大戦中にスペインへ亡命。大戦後、離婚しパリへ戻る。繊細で優美な色彩とフォルムを駆使した絵が大人気に。舞台芸術や挿し絵、室内装飾、詩文集にも才能を発揮した。