女優
森 光子
Mituko Mori
あいつより上手いはずだがなぜ売れぬ
2009(平成21)年5月9日、舞台『放浪記』が上演2000回を迎えました。この日は、主演森光子の89歳の誕生日でもありました。単独主演として世界初の偉業達成です。そして、年齢的に健康が心配されていた光子は、「これからはもっともっと表現力の豊かな女優になりたいと思います」と挨拶したのです。
森光子、本名村上美津は、1920(大正9)年に京都の花街木屋町で生まれました。生家は割烹旅館「國の家」で、元芸妓の母親が切り盛りしていました。美津は活発な少女で、舞妓から女将へという定めに反発、憧れはモダンな少女歌劇のスターでした。やがて京都一の名門女学校に進学しますが、母親が病死。
そんなこともあって美津は女学校を中退。仕方なしに美津の従兄の映画スター嵐寛寿郎の京都のプロダクションに14歳で入ったのです。芸名は森光子、娘役の端役ばかりでした。
やがて、戦時色が濃くなっていく昭和16年、21歳で「歌手になりたい一心」で上京。人気歌手の前座として慰問団に加わり命がけの戦地巡業をします。戦後は、進駐軍回りのジャズ歌手を経て、関西へ戻った光子は「歌ったり、コントをしたり、劇場から劇場へと駆け巡る生活」で食いつなぐ日々、過労で肺結核に…。「このままでは死にたくない!」――昭和27年、どん底から生き返った光子が復帰の挨拶回りをすると、光子は死んだとされており、「葬式に行ったよ」という人まで現れる始末。3年間のブランクで仕事をなくした光子に救いの手を差し伸べたのは関西のラジオでした。放送を開始したばかりのテレビにもチャレンジ。当時は一発勝負の生放送だったため、即興で切り返す技を身につけます。
舞台でも喜劇女優として日の目を見始めた38歳の時、転機が訪れます。演劇界の大物で劇作家の菊田一夫が、舞台に出ていた光子を偶然見てそのアドリブの演技に関心。東京に呼び寄せたのです。「いつかは私だって主役を」と意気込んで上京したものの、菊田は「君は面白いが、個性がない。やっぱりワキ(脇役)だな」と宣告。「あいつより上手いはずだがなぜ売れぬ」――脇役ばかりの惨めさを光子は川柳に詠みました。
昭和35年、菊田の自伝『がしんたれ』の舞台に、光子はたった二場、作家の林芙美子役で出演。この出番が好評で、菊田は「次は林芙美子だよ」。「幸せがユーターンする人生を歩んできた私は、(主役だとは)ぬか喜びはしない」――でも、ポスター撮影に呼ばれたのは光子一人。41歳で初めてつかんだ主役でした。
昭和36年10月20日、『放浪記』の幕が上がります。長い苦労を重ねた林芙美子を無我夢中で演じ終えると、客席はしんとしたまま。「ああ、これはだめだ」――肩を落とした瞬間、大きな拍手がわき起こったのです。
それからは、光子は一気にスター女優として花開きます。二度大病を患い入院しますが、下積みが長かった光子は、頑なに代役を拒否。病室から現場に通います。――「誰かが代わりをつとめるだけ、休めば忘れられるだけ」「這ってでも舞台に立ち、舞台で死んでもいい」「人生、あきらめたらそこで終わり」――光子は『放浪記』を2017回演じました。幾度か恋も結婚もありましたが、仕事一筋の道を選びました。92歳で旅立った時、枕元には『放浪記』の台本があったそう…。
19201~2012年。女優。京都生まれ。14歳で従兄で映画スター嵐寛寿郎のプロダクションに入り、映画出演。’41年に歌手を目指して上京、戦地の慰問をする。戦後、大阪でラジオ、テレビ、舞台に出演。’58年に菊田一夫に見出され上京。’61年に『放浪記』の主役に抜擢。テレビでは『時間ですよ』などで国民的女優となる。2009年には女優では初の国民栄誉賞を受賞する。