漫画家
長谷川町子
Hasegawa Machiko
いい作品が出来たときの嬉しさや満足感は、
誰にもわからないわ
1991(平成3)年、『サザエさん』の作者長谷川町子が日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞しました。その受賞パーティーに町子が姿を現すと、「動く長谷川町子を初めて見た」と会場がどよめきます。国民的漫画家で知られた町子が人前に出ることは滅多になかったからでした。
長谷川町子は1920(大正9)年、佐賀県で生まれ福岡市で育ちます。炭鉱技師から起業家になった父親のもと、4人姉妹の三女(次女は夭逝)としてのびのびと大変なわんぱく少女に育ちます。同時に、展覧会に絵を出品すれば必ず賞状をもらう腕前で、動物も大好き。将来の夢は「小学校の図画の先生か、動物園の園長さんになること」でした。
しかし町子が13歳の時、父が病没。母親は涙が枯れると突然、3姉妹を東京で教育することを決断。昭和9年に一家で上京します。お嬢様女学校に転入した町子は、都会的な同級生に委縮。わんぱくさは鳴りを潜め、内向的になっていくのです。
家にこもり大人気だった田河水泡の漫画『のらくろ』を読みながら、「田河水泡のお弟子になりたい」とつぶやきます。物怖じしない母はすかさず、姉の毬子を付き添いに町子を田河家に参上させます。弟子をとらない田河は、門前払いに。でも、しっかり者の毬子が粘った末に町子は弟子入りに成功。翌年、15歳で雑誌「少女倶楽部」でデビュー。日本初の少女漫画家の誕生でした。そして、長谷川家の大黒柱となるのです。
やがて、戦況の悪化に伴い一家は、再び福岡へ疎開。町子にとっては懐かしい「マイ・スイート・ホーム」でした。そして、西日本新聞社で職を得て、絵画部に配属。戦時下での漫画ルポの仕事を任されます。
終戦後、地元の「夕刊フクニチ」から連載漫画の依頼が。「地方紙の気軽さから、あっさり引き受け、主人公は、おてんば娘とすぐ決めました」――そして1946年4月22日、『サザエさん』がスタート。日本の新聞史上、女性が主人公の漫画は初めてのことでした。そのサザエさんは、陽気な性格。戦後の暗い時代に「なるべく明るいものをと思ってサザエさんを描いているんです」という思いを込めてのことでした。
その年に母の号令で、一家は再び上京。漫画家で勝負するならやはり東京でというのが家族の一致した考えでした。『サザエさん』は大好評で連載は続けますが、最終的に1951年から朝日新聞朝刊で28年間に渡る長期連載となったのです。
しかし、毎日のこととなるとアイデアに悩まされます。衝動的に漫画の道具を燃やし休載することも――「今まで描いて楽しかったというのはありません」。さらに、人付き合いが極端に苦手で外出はほとんどせず、お酒も甘いものも苦手。そんな町子の気晴らしは、海外旅行と最新のおしゃれでした。作中、サザエさんもいち早く流行を取り入れています。「家庭漫画は、清く正しくつつましくを要求されるけど、私の本性じゃない」というプレッシャーの中で、1966年に『いじわるばあさん』を開始。「私の地のままでいいから」と、描くのが楽しみとなります。
女性漫画家の開拓者として、創作に苦しみながらも多くのユニークな作品を産み出した町子が、生前、家族に語った言葉です――「いい作品が出来たときの嬉しさや満足感は、あなたたちの誰にもわからないわ」
1920〜1992年。漫画家。佐賀県生まれ、福岡市育ち。13歳で父親を亡くし 、一家で上京。田河水泡に弟子入りし、15 歳で漫画家デビュー。終戦の翌年、夕刊フクニチで『サザエさん』を連載開始。 1951年から朝日新聞朝刊に連載が移る。1946 年に母の号令で長女を社長に姉妹社を設立、単行本出版や著作権管理を家族で行う。1969年にはテレビアニメがスタート。1985年、収集した美術品を公開する長谷川美術館(当時)を世田谷の自宅近くに設立。2020年、生誕100年で長谷川町子記念館がオープンした。