女優、歌手、モデル
ジェーン・バーキン
Jane Birkin
彼は私にとって人生のすべて。
それは永遠に変わらない
2011年4月、東日本大震災の直後、フランスの女優で歌手のジェーン・バーキンが単身で来日しました。そして、チャリティー・コンサートと、避難所の慰問をしたのです――「反対されたけど来られずにはいられませんでした。こうして直接、愛していると伝えられるのだから」。
ジェーン・バーキンは、1946年にロンドンで誕生。父親は貴族階級の海軍少佐で、母親は英国の国民的舞台女優。兄と妹の3人兄弟の真ん中で、美人の母と妹にコンプレックスを抱えて育ち、年頃になっても薄い胸に引け目を感じます。
「私は、とにかく美しいと言われたかった。誰かに見られたかった」――そうして、17歳で母と同じ舞台女優の道へ入り、ミュージカルに出演した時、作曲家ジョン・バリーと恋に落ちます。彼は、007シリーズのテーマソングで有名で、名うてのプレイボーイ。ジェーンは周囲の猛反対に聞く耳を持たず結婚します。
しかし、長女ケイトの出産後すぐにバリーは別の女性とアメリカへ。途方に暮れたジェーンは泣きながら実家に帰ったのです。20歳でシングルマザーとなり傷心のまま、「子育てのお金のために」とフランスで映画のオーディションに挑戦。そこで、共演者として出会ったのが18歳年上のミュージシャンで俳優のセルジュ・ゲンズブールです。すぐに恋人同士となった“運命の男”でした。
ゲンズブールのプロデュースや共演で多くの映画に出演し、瞬く間にフランスのアイドルスターに。大胆なヌードも厭わずに披露します――「私を美しいと思う人のために脱ぐの」。男の子のような身体、無造作なヘアスタイルにシンプルなジーンズの着こなしも注目の的となります――「フランスの異国趣味が私の体型、髪型、すきっ歯、英語訛りのフランス語を気に入ってくれたのね」。
そして、ゲンズブールの曲を吹き込み歌手デビューもします。中でも、2人のデュエット『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』が世界的なスキャンダルに。愛の吐息のような歌が不道徳と、各国で放送禁止となったのです。それでも歌は大ヒット。一躍、伝説のカップルとなり、次女シャルロットも誕生しました。
また、ジェーンのトレードマークは大きなかごバッグ。たくさんの荷物を詰めて常に持ち歩きます。ある時、飛行機の中でかごをガサゴソしていたら、隣席の男性が失笑。彼はエルメスの社長でした。ジェーンはそこで「もっと便利でシックでなんでも入るバッグが欲しい」と、デザインを提案。こうして、エルメスの名品バーキンが生まれました。
「彼は私にとって人生のすべて。それは永遠に変わらない」――ゲンズブールとは12年で破局しますが、2人の音楽制作は続き、友情も不滅でした。そして、次に結婚したのが映画監督のジャック・ドワイヨン。彼によってシリアスな役で演技派として認められます――「それまでの自分の魅力を捨てるという危険を冒したの」。三女ルーも授かります。
しかし、ゲンズブールと父親の死、ドワイヨンとの離婚、後には長女の自死がジェーンに影を落とします。無気力となったジェーンに生きる気力を与えたのは様々な人道的支援活動でした――「どうせ生きるのなら、なにか良い理由が欲しかっただけ」。哀しみを背負いながらも世界を魅了したチャーミングな笑顔は不滅です。
1946~。女優、歌手、モデル。イギリス、ロンドン生まれ。17歳で舞台女優となり、映画にも出演。17歳で結婚、長女ケイト・バリー(写真家)を出産後に離婚。20歳でフランスへ渡り、セルジュ・ゲンズブールと出逢う。映画の共演やレコーディングを共にし大人気に。次女シャルロット・ゲンズブール(女優・歌手)をもうける。映画監督ジャック・ドワイヨンとの間にも三女ルー・ドワイヨン(女優・歌手)を出産。フレンチシックなスタイルが女性たちの憧れの的となる。人道的支援でも活動。大英帝国勲章と日本の旭日小綬章を受賞する。