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時を創った美しきヒロイン

作家

田村 俊子

Toshiko Tamura

何もかも捨てちまって
遠いところへ行きたい

 1918(大正7)年10月11日、横浜港から34歳の人気作家・田村俊子がカナダのバンクーバーへ向けて旅立ちました。2歳年下の恋人・鈴木悦を追ってのことでした――「私は色々の意味で、まったく新しい生涯をこれから築きたいと思うのです」

 俊子は、1884(明治17)年、東京は浅草蔵前の米穀商に佐藤俊子として誕生。長じて、新設の日本女子大学国文科に進学しますが、病気のため中退します。

 そして、文学を志していた俊子は、文豪・幸田露伴に入門。何作か書いていく中、18歳の文学少女の心を捉えたのが6歳年上の兄弟子・田村松魚でした。7年後、アメリカ外遊から帰国した松魚と結婚。しかし、松魚にはもはや文学の才能はなく、たちまち生活に窮してしまいます。

 ある日、松魚は大阪朝日新聞の懸賞小説募集の切り抜きを俊子に差し出します。俊子の作家としての才能を見抜いていた松魚は、怒鳴ってはおだてて妻にものを書かせようとしたのです。「そんな事に使うような荒れた筆は持っていませんから」と反発していた俊子も、ついには必死に机に向かいます。原稿が書き上がったのは締め切り当日でした。

 こうして1910(明治43)年、『あきらめ』が入選。次々に作品を発表し、『青鞜』の創刊にも参加します。「この女の書くものは大概おしろいの中から生れてくるのである」――どこか官能的な香りのする俊子の小説は高く評価され、華やかに活躍したのです。原稿料で生活が成り立つ女性初の職業作家の誕生でした。

 しかし、収入が激増すると俊子の浪費癖が家計を圧迫。加えて、働かない夫への不満が募り、やがては作家としてのスランプに陥ってしまいます――「何もかも捨てちまって遠いところへ行きたい」

 そんな時に出会ったのが、2歳年下の新聞記者・鈴木悦でした。松魚とはすでに別居状態で、悦には郷里に妻がいました。不倫の恋に落ちた2人は世間から身を隠します。 「世間的の名声や、地位や、金に何の未練があるでしょう。ただ、あなたと二人だけ。あなたとだけの生活がしたい」――2人は海外渡航を決意。1918年5月、先に悦がバンクーバーへ発ちます。俊子は渡航費を工面して後を追うことに。「あなたが恋しくて泣きしずむ」――2人はおびただしい数の手紙をやりとりした末に、ようやく10月に異郷で再会を果たしたのでした。

 彼の地で、俊子は日系移民向けの邦字新聞に加わり、2年後には2人は正式に夫婦となることが出来ました。さらに移民たちの組合運動を助け、婦人部を作り女性たちのリーダーとして活動。そして15年の月日が流れ、悦だけが一時帰国します。

 間もなくして1933年9月、俊子に届いたのは悦の訃報でした――「目の前に大きな黒い穴がぱっくり開いたよう」。憔悴する俊子が抱きしめたのは「私の命より大切なもの」、悦との愛の往復書簡の束でした。

 俊子は日本に帰国したものの、文壇に戻る力はすでになく、1938年12月、新境地を開くため中国に渡ります。中国語の女性誌『女声』を創刊し多忙な中、1945年4月13日、上海の路上にて脳溢血で昏倒。3日後に61歳で亡くなります。人々の移動が不自由だった時代、自分の未来を求めて軽やかに国境も因習も越えた俊子の劇的な生涯でした。

Profile

1884~1945年。作家。東京生まれ。27歳で『あきらめ』で文壇デビュー。『木乃伊の口紅』『女作者』など数々の著書を発表、売れっ子作家となる。34歳で恋人の鈴木悦を追ってカナダへ。54歳で中国へ渡り、中国語の女性誌『女声』を創刊。61歳で上海で客死。没後16年、俊子の友人知人たちにより俊子の印税で田村俊子賞が創設。第1回受賞作に瀬戸内晴美(寂聴)の『田村俊子』が選ばれた。