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時を創った美しきヒロイン

歌人

山川 登美子

Yamakawa Tomiko

髪ながき少女とうまれしろ百合に
額は伏せつつ君をこそ思へ

 1901(明治34)年、与謝野晶子が歌集『みだれ髪』を刊行。歌の師である与謝野鉄幹への愛を大胆に詠った歌集は世間に衝撃を与えました。そして、その騒ぎの陰で、晶子のライバル山川登美子がひっそりと歌壇を去っていたのです――「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」(紅い花をみんな友に譲り、私は泣きながら忘れ草を摘み、思いを忘れます)。

 山川登美子は、1879(明治12)年、現在の福井県小浜市に生まれました。山川家は代々小浜藩主に仕えた重臣の旧家で、父親は維新後、第二十五国立銀行の頭取を務めます。士族の娘として厳しく躾けられた登美子は、また、海と山に囲まれた小浜で豊かな感性を育みました――「幾ひろの波は帆をこす雲にゑみ北国人と歌はれにけり」

 やがて、大阪の梅花女学校に学びます。卒業時には、絵を学びたいと熱望。しかし、父親の許しが出ずに帰郷せざるを得ませんでした――「この望みを失ひ候へば、最早この身を保つ甲斐御座なく候」

 画家の道を断たれた登美子は、悶々としながら、手すさびに詠んでいた短歌を雑誌に投稿するように。そして、明治33年4月、梅花女学校の研究生となり英語を学ぶために再び大阪へ出ました。その頃から、与謝野鉄幹が起こした東京新詩社の機関紙『明星』に投稿を始めます。

 その年の8月、来阪した鉄幹の歌会に参加した登美子は、晶子とも出会うのです。そして、旧派和歌ではなく清新な近代短歌へ導く鉄幹は、まぶしく魅力的で、歌への情熱をかき立てられます。登美子はお嬢様芸としてではなく、鉄幹を敬慕し本格的に歌を詠む覚悟を決めたのです――「あたらしくひらきましたる詩の道に君が名讃へ死なむとぞ思ふ」

 恋と歌に目覚めた登美子…。それは晶子も同じでした。鉄幹には一子をもうけた妻滝野がいましたが、登美子を白百合、晶子を白萩と呼び、大胆にも誌上で愛の歌を交わします。登美子と晶子は恋に歌に競い合い、才能を開花させていくのです。

 しかし、郷里では登美子に一族の山川駐七郎との縁談が進められていました。登美子は師への未練を断ち切り、明治34年、東京で新婚生活を開始。そして、晶子が『みだれ髪』で歌壇のスターになったこと、滝野と別れた鉄幹が晶子と結婚したというニュースに唇をかみしめます。その翌年、夫が結核で他界。立て続けに長兄と長姉も亡くなります。

 明治37年、自立を考えた登美子は日本女子大学に入学。そして「歌さえあれば哀しみに耐えられる」と、『明星』に復帰したのです。そこで鉄幹は、登美子、登美子の同級生増田雅子、晶子の合作『恋衣』を企画。翌年に刊行されたこの歌集には、「髪ながき少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ」を始め登美子の歌131首が載りました。

 歌集は高評を得ますが、晶子の反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が掲載されていたことで、大学が問題視。登美子は休学処分の憂き目に遭います。さらに、亡夫からの結核を発病。最愛の父親も亡くし、29歳の若さで旅立ちました。「父君に召されていなむとこしへの春あたたかき蓬莱のしま」という辞世の句を遺して。

 幾多の不運にも士族の娘らしく凛として臨み、気品ある感動的な歌の数々を詠み続けた生涯でした。

Profile

1879~1909年。歌人。現在の福井県小浜市生まれ。小浜藩の上級武士の家柄で、大阪の梅花女学校に学ぶ。明治33年、21歳で『明星』に参加。歌の道に専念すると共に、『明星』主宰の与謝野鉄幹への思慕を募らせる。しかし、恋敵である後の与謝野晶子に鉄幹を譲り、親の決めた相手と結婚するが2年で夫が結核で他界。東京女子大学英文科予備科に入学後、『明星』に復帰。登美子、晶子、増田雅子の合同歌集『恋衣』を鉄幹がプロデュース。明治38年に刊行されるが、亡夫からの結核で29歳で死去。